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フィールド紹介

1.道南・渡島半島

2.大雪山系

3.浦幌・白糠丘陵

4.知床



1.道南・渡島半島

調査用ドラム缶罠 ドラム缶罠設置

■サンプル収集
 道南地区は、幅が狭く急峻で平地が少ない地形の渡島半島に、大まかな推定で500頭余りというヒグマと48万人の住民が生活している。
 北海道の他地域と異なり、冷温帯林であるブナ林にヒグマが生息し、その実はヒグマの貴重な越冬食料となっている。複雑な地形と豊かな落葉広葉樹林の存在が、古くから和人が住み着いた地域でありながら、多くのヒグマが生き残ることを可能にしたのかもしれない。人とヒグマの濃密な関わりの中で、これまた濃密な調査研究と共生の試みが続けられている。
 渡島半島のヒグマフィールド調査は、1970年代初めに始まった。北大ヒグマ研究グループ(クマ研)発足間もないころ、米田政明、新妻昭夫らが長万部で狩猟者から聞き取りを行い、アイヌ民族のクマ送りのしきたりを受け継いで大事に保管されていた頭骨の計測分析を行い、年齢査定法の確立やヒグマの成長と大きさについて明らかにした。
 その後、1983年、同じ北大クマ研の間野勉が道北調査から転じて、上ノ国町にある北大桧山演習林を拠点に、狩猟者の聞き取り、捕獲個体サンプル収集調査を本格的に始めた。
 捕獲個体調査は、「クマが捕れた」と聞くとハンター宅を訪れ、サンプルを提供してもらう。性別や胃内容を調べ、体型を測り、できれば頭骨を借りて歯から年齢を査定する。年齢や性別の構成比率から、個体群の変遷や現状、将来を読み解くのが目的だ。
 ハンターは調査研究に必ずしも好意的ではなかった。貸した頭骨や毛皮がちゃんと返ってくるのか。データはどう使われるのか。捕獲規制の口実にされるのではないか、と。そもそも、間野は当時、北大農学部3年で、突然現れた「変な学生」だった。
 道北の天塩演習林で地元との付き合いの大切さを知っていた間野は、とにかく足を運んだ。青いカローラの走行距離は年間2万キロ。1年で100人以上の狩猟者を訪ね、今でもその6割と付き合いがあるという。
 貸してもらった頭骨は丁寧にクリーニングして返却し、「北大に貸すとピカピカになって戻る」と言われて、協力者が増えていった。5年間の調査で、道南の捕獲個体440頭のうち、390頭を回収した。
 間野は「あちこちに一宿一飯の父さん母さんができた。飛び込んでいけば、分かってもらえた」と振り返る。
 当時、北大歯学部解剖学講座の大泰司紀之研究室に机を借り、年齢査定の作業をした。採集した歯の年輪からクマの年齢を読みとる技術は、八谷昇技官が切片の作り方や染色法を伝授してくれた。繁殖の痕跡が残る生殖器は獣医学部の坪田敏男(当時大学院生、現教授)が分析し、北海道の野生ヒグマ個体群の初産年齢や出産間隔、平均産子数などが明らかにされた。


■テレメトリー調査
 道南で電波追跡(テレメトリー)調査が始まったのは1986年から。85年に環境庁の委託によるヒグマ調査が始まり、その中でテレメが行われることになった。調査の枠組みは、東京の野生生物研究センターで大型獣を担当していた米田政明が組み立てた。
 電波追跡のためには、まずクマを捕まえ、発信器(首輪)をつけないといけない。国有林は「ワナにかかったクマは人を憎む手負い状態であり、山には放せない」と生け捕り用の箱ワナ設置を拒絶。85年は地元との調整で終わり、86年から北大桧山地方演習林と松前林務署管轄の道有林に箱ワナが仕掛けられた。
 そのワナも、そのころ使われていた鉄骨式は重く高価だった。冬眠穴の形にヒントを得て、間野はドラム缶を2本(のち3本)つないで片側をふさぎ、反対側にはクマが入ると鉄板が降りて閉まるゲートを設けた「ドラム缶ワナ」を考案した。これなら1基3万円ででき、分解すると4人ほどで運べる。
 87年には強力な助っ人が秋田から現れた。米田(まいた)一彦と小島聡。米田は秋田県職員としてツキノワグマ対策に従事し、前年のツキノワグマ大量捕殺に苦しい思いを抱いていた。ヒグマの会のフォーラムを通じて間野と知り合い、上ノ国町の鉱山跡にある古い町営住宅で男3人の共同調査生活が始まった。
 ドラム缶ワナの改良を重ねながら、2年間で11頭を捕獲。クマ研学生らも加わって、アンテナを持ってクマを探し回った。広域で継続的な調査から、広葉樹林に依存する行動圏や、メスの行動域が狭く、オスは死亡率が高い、などの貴重なデータが得られた。
 一方で、追跡個体の射殺、不審な死も相次いだ。90年までの調査期間中、11頭のうち8頭もが人為による死を遂げた。


■イカゴロ騒動
 ヒグマの行動追跡から浮かび上がってきたのは、海岸や山すそに投棄された水産廃棄物をあさる「餌付けされたクマ」の問題だった。
 道南の夏の海は、イカ釣り漁船のこうこうと明るい集魚灯に照らされる。水揚げされたイカは、多くが内臓を抜かれ、スルメや燻製に加工される。その大量の内臓が廃棄物、通称「イカゴロ」となって、密かに、あるいは公然と野外に投棄されていた。
 イカの塩辛をさらに強烈にしたような匂いは、風に乗って山のヒグマを誘う。国道を横切って、海辺の斜面に捨てられたイカゴロをあさりに多くのクマが現れた。
 イカゴロは、ヒグマを国道や人里近くに招き寄せ、人や人の食べ物に慣れさせ、警戒心を失わせてしまう。出没が問題になると、簡単に駆除(射殺)され、同じイカゴロの投棄場所で、何頭もの出没と駆除が繰り返された。
 イカゴロはれっきとした産業廃棄物だが、処理に費用がかかるため、地元では野外投棄も仕方ない、と見過ごされてきた。住民も汚い場所を避け、見ぬふりをしてきた。間野は「テレメと死因の調査によってヒグマを取りまく現実が浮かび上がり、地域や行政もそれを無視できなくなった」と語る。
 1989年11月11日、上ノ国町福祉センターで開かれた第9回ヒグマの会のヒグマフォーラム。間野は「ヒグマ電波追跡による行動範囲とその季節利用」を発表する中で、イカゴロがヒグマを人里に近づける誘引となり、また、無用の駆除の原因にもなっていることを明らかにした。
 ヒグマ対策を担当する町職員は、フォーラムの講演で「出没は日常茶飯事で、農作物の被害も多い。必要以上の駆除は疑問だが、地域の実情にあった対策は必要だ」と切実な事情を語った。
 翌12日、フォーラム参加者たちは、上ノ国町の海岸にあるイカゴロ投棄現場を視察した。小型アンテナを持った間野が、電波追跡のやり方を解説。ササ原から海辺の急斜面をのぞき込むと、黒や灰色の腐ったイカゴロが下まで続いていた。
 近くには海水浴場や釣りポイントがあり、クマの目撃も多い。電波追跡調査では、88年10月には、この場所に22日間居続け、その場で射殺されたクマがいた。同様に、5年間に5頭のヒグマが駆除されたという。
 フォーラムの取材に来ていた北海道新聞と朝日新聞、NHKなどがイカゴロ投棄とクマ駆除の関係を報じ、問題は一気に表面化した。イカゴロは地元に配慮して「生ゴミ」と表現されていたが、同じことだ。町はすぐ廃棄現場に通じる道に丸太を打ち込んで通行止めにし、その後、イカゴロの処理は正規の埋め立てやリサイクルが行われるようになった。


■江差町で国際フォーラム
 道南のヒグマ調査の変遷は、北海道庁のヒグマ対策の転換と重なる。
 急速なヒグマ分布域の縮小や推定生息数の減少を背景に1989年、当時の横路孝弘知事が「ヒグマは本道の豊かな自然を象徴する野生動物」と道議会で述べ、実質的な絶滅政策から共存政策への転換が行われた。翌90年には捕獲効率が高い(高すぎる)春グマ駆除制度を廃止した。捕獲奨励金をやめる市町村も増えた。
 91年、道公害防止研究所を改組する形で、環境科学研究センターが札幌市北区に設立され、野生動物を担当する部署にヒグマ、エゾシカの専門家が採用された。北大大学院から環境科学研に移った間野勉が、道の仕事としてまず道南のヒグマ調査に取り組んだ。
 大学院時代から手がけていた電波追跡に加え、92年から残雪期にヘリを使った目視個体数調査も上ノ国町、松前町などで始めた。行政の研究機関として、単なる学術調査ではなく、全道のヒグマ対策の第一歩としての、渡島半島を対象としたヒグマ保護管理計画の策定が大きな目的だった。
 ヒグマが多いとされる知床や大雪山、日高ではなく、なぜ渡島半島が先行地区に選ばれたのか。
 複雑な地形とブナのおかげでヒグマの生息数が多く、人との混在、ひいては軋轢も多い。それだけに対策の必要性、緊急度が高いと言える。また半島部で他の地域から独立している点も、モデル地域には適していた。
 開拓前は全道に広く分布していたヒグマだが、現在は5つの地域に個体群が分かれ、分断が進んでいる。渡島半島、積丹・恵庭(石狩西部)、日高・夕張、天塩・増毛、道東・宗谷。このうち、広い範囲でつながっているのは日高・夕張から道東・宗谷にかけての地域だけだ。1976年から、梶光一(北大農学部から道環境科学研究センター、現東京農工大教授)らが、自治体や狩猟者らに大規模なアンケート調査を行って、生息域の変化を追った成果だ。
 道は96年、野生動物保護管理指針を策定し、その中でヒグマなどの野生動物を「道民共有の財産として絶滅を防ぐ」対象とした。
 98年、環境科学研究センターの現地機関として、桧山管内江差町に道南野生生物室が置かれた。スタッフは室長の富沢昌章と研究員の釣賀一二三(現室長)の2人。ヒグマの調査研究が主目的だが、出没や被害の現場対応や地元の相談役としても頼られることになる。
 99年2月、クマ国際フォーラムが、道とヒグマの会の連続開催の形で江差町で開かれた。20日はヒグマの会の「もっとクマを知ろう」。21日は道主催の「人とヒグマの共生を考える」。
 北米の人身事故を詳細に分析した「ベア・アタックス」の著者、スティーブン・ヘレロ氏や米国の保護管理官、地元農家、森林官ら、さまざまな立場の人が発表し、人とヒグマの共生のための課題や解決策を考えた。
 江差追分大会が開かれる大ホールに500人余りの出席者があり、「クマ問題にこんなに人が集まるのか」と、それだけで話題になり、「道南のヒグマ」が地域の課題として広く認識されるきっかけともなった。
 毎年、道内各地で地域課題をテーマにフォーラムを開いているヒグマの会にとっても、上ノ国(89年)でイカゴロ問題を提起し、10年後の江差(99年)では公的保護管理の動きを後押ししたという点で、道南は意義深い地区である。

■道の渡島半島対策
 道の渡島半島地域ヒグマ保護管理計画は、当初の意気込みとは裏腹に、残念ながら体制の充実や他地域への展開が進まず、北海道のヒグマ対策全体と同様に足踏みを続けている。
 計画素案は2000年2月に公表された。道庁の地域計画は支庁単位がほとんどだが、この計画ではヒグマの行動圏を配慮し、渡島、桧山両支庁に後志南部3町村を加えた。
 計画素案は「共生」を掲げて、駆除中心の対策方針を、問題グマの発生予防へと切り替え、捕獲個体の分析や人材育成も盛り込んだ。だが、地元町村や農家、猟友会からは「駆除活動が制約され、被害防止対策が弱い」という強い反発があった。
 道は2000年10月に修正案を提示した。「共生」の言葉が消えたかわり、人とヒグマの「すみ分け」が強調され、春季の計画的な捕獲が提示された。道は「共生というと、同じ場所に暮らすような誤解を招いた」と釈明。春の捕獲は「1989年まで行われた無差別な春グマ駆除ではなく、行動圏が広く、夏から秋にかけて人里であつれきを起こす可能性の高いオスを識別して捕獲数を管理する」と説明して、計画が決まった。
 市町村の反発の背景には、繰り返し起きる人身事故や農業被害がある。死亡だけでも、77年に大成で男性2人。90年に森と上ノ国でそれぞれ男性。99年は木古内で男性1人死亡、女性2人重傷という事故があった。統計に現れない農業被害なども含めると、ヒグマと間近に暮らす住民の圧迫感や被害意識は根強い。
 春季管理捕獲は、渡島半島限定で、2002年春から3カ年の期限付きで始まった。41日間にオス39頭、メス10頭という捕獲枠。追跡時に足跡の大きさから雌雄判別をする、となっていた。3年間にオス15頭、メス9頭、不明1頭が捕獲されたが、目的とした「問題を起こす可能性の高い個体を捕獲して被害を軽減する」効果が明確でないとして、2004年に中止された。
 その後、目的を変更し、「(ヒグマを追跡・射撃できる)人材育成のための捕獲」が2005年から行われている。見通しがよく、足跡も残りやすい残雪期の特性を生かし、ベテランと若手ハンターの組み合わせで、深刻な狩猟者不足に対応する試みだ。期間や捕獲上限は同じ。その後、06年から雌グマの捕獲上限が10頭から5頭に引き下げられたが、捕獲対象や数の規制は引き継がれている。当初3年間の計画だったが、道は「ヒグマ捕獲技術者の育成に効果がある」として、その後2年間継続実施している。
 狩猟者の減少と高齢化、減らぬ農業被害などの悪条件はあったが、電気柵の設置や出没を抑制する道路脇の草刈り、自動撮影カメラのノウハウなどのヒグマ対策が編み出されていった。

■ヒグマの会の提言
 ヒグマの会は人身事故が多発した2001年の12月、金川弘司会長名で堀達也知事あてに提言書を提出した。渡島半島地域ヒグマ保護管理計画に対しては、「先進的で優れたマネジメントシステム」と評価しつつも、継続的なモニタリングや専門家チームの確保が十分ではなく、特に春季管理捕獲については「問題個体の排除にはならず、捕殺は事故防止につながらない」と疑問を呈した。
 提言はまた、全道的な市民向けヒグマ対応教育の推進や、被害の情報収集・対応システムの構築を求めた。
 春季管理捕獲に対しては、日本クマネットワーク(JBN)も同時期、青井俊樹代表名で、「総合的に行うべき保護管理計画の中で、駆除だけが突出している」と懸念する要望書を出した。
 調査方法としては、道南野生生物室が取り組むDNA分析を個体識別に応用する手法が大きく進んだ。クマの通り道に有刺鉄線を仕掛けて体毛を採取するヘアトラップなどでサンプルを集め、個体識別が可能になったことで、行動域などの生態調査や、捕獲個体の確認などに利用されるようになった。
 こうした技術的な改善の一方で、それを支える道の人的体制は当初と変わらず、渡島・桧山両支庁の自然環境係と、道南地区野生生物室(江差町)の2人だけだ。最も期待された「地域の相談役になれるヒグマ対策の専門家配置」は実現されていない。道の財政悪化、人員削減のもとで、現状維持さえ危うい。
 こうした地域対策で最も重要なのは、技術や理論だけではなく、被害やトラブルの現場に素早く駆けつけ、住民や市町村担当者と一緒に考える「対策専門家」(保護管理官)の存在だ。それを欠いたままでは、住民の理解もなかなか進まないだろう。
 先行モデル地区という渡島半島の位置づけも、せっかくのノウハウやデータが道央や道北、道東に拡大される見通しは厳しい。野生動物保護と住民の安全をどう両立させるか。北海道庁のヒグマ政策の足踏みが続いている。(山本牧)


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