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ヒグマ研究最前線


ここまでわかったヒグマの生態と行動圏

アイヌの写真 北海道のヒグマ研究が、アイヌの狩猟者や、被害者からの聞き取り中心から、生息域での生態調査や、体系的に収集した試料に基づく研究へ踏み出していったのは、1970年に結成された北海道大学ヒグマ研究グループの大学院生、学部学生たちからだった。
 ヒグマが、いつ、どこで、何を食べているのかという基礎的な調査のため、食痕を記録し、フンを分析する作業が、北大天塩地方演習林で彼らによって続けられた。こうした野外調査は次第に知床半島、大雪山系、渡島半島へ拡大し、さまざまな地域におけるヒグマの食性が記録されていった。
 その結果、冬眠明けの4〜5月にかけた春季には、芽吹いたばかりの軟らかい植物を、6〜8月の夏季は植物のほかにアリやハチなどの昆虫やザリガニ、9〜11月の秋季にはミズナラやオニグルミ、ヤマブドウなどの種子や果実などを食べていることが分かった。
 また76年には、長万部町の狩猟者高橋藤三郎氏が長万部岳一帯で捕獲したヒグマの頭骨49例と、北大が所蔵している標本125例をもとに、犬歯の歯根部セメント質に形成される年輪を数えることで、その個体の年齢を割り出す「年齢査定技術」が確立され、その後の捕獲個体分析の基礎となった。
電波発信機 日本のヒグマの電波追跡調査が、初めて同演習林で試みられたのは77年だった。ヒグマが冬眠に入る場面を観察した学生達の強い思いが、演習林長だった瀧川貞夫助教授の全面的支援で実現した。首輪型発信器は学生の手作り、野生のヒグマを麻酔した経験者はゼロだった。最初の試みは麻酔の失敗で、そのヒグマが死亡する結果に終わった。2年半後、捕獲した個体を数日間追跡したが、すぐに見失った。成果はわずかだったが、捕獲、麻酔、追跡の解決すべき課題が判明し、その後、各地で続けられた電波追跡調査の基礎となった。
 調査が継続して行われることによって、天塩演習林におけるヒグマの生息数の推移も浮かび上がってきた。足跡のサイズで個体を識別し、その数を推定する方法を応用した結果、66年から春グマ駆除が続けられたことで、急激な生息数の減少が起きたことが、80年代以降に明らかになった。同演習林での個体数動向の継続調査(モニタリング)は、現在も学生達が続けている。

ゾンデヒグマ調査冬眠穴での捕獲

食性の変化や繁殖生理が明らかに
 ヒグマは渡島半島から宗谷地方や知床半島まで広く分布しており、生息環境も海岸線の草地か高山帯まで様々である。このためヒグマは、それぞれの場所で利用できるものを食べている。
 北海道のヒグマの食性は、70年代から80年代初頭にかけた調査研究から、植物食を中心とした雑食性であるとされてきた。しかし91年度に駆除や狩猟で捕殺された67例の胃内容物の分析で、6例からエゾシカの体毛や肉片、骨片等が見つかった。渡島半島地域はゼロだったが、道東・宗谷地域は15%、日高・夕張地域は13%の出現率だった。80年代のフン分析では2カ所から3例で、出現率は1・0%。エゾシカの急増という環境変化に、ヒグマが柔軟に順応していることをうかがわせている。
 北海道のヒグマの繁殖生理の研究に最初に取り組んだのも北大クマ研の学生だった。のぼりべつクマ牧場で飼育されているヒグマを使った実験と、捕獲されたヒグマの生殖器の分析で、交尾期は6〜7月、受精卵は冬眠前の11月下旬に着床するまで子宮内に浮遊し、母体内での実質的な発育期間は2カ月程度であることなどが明らかになった。
 北海道のヒグマ研究は、本州のツキノワグマ研究者と比べると極めて少ない人々によって進められてきた。だが、その行動圏、冬眠穴、生息地による差異、捕獲法、安定同位体分析による食物摂取の推定など、その成果は多岐にわたり、限られた紙数でそれらを紹介するのは不可能というほかはない。その中で電波発信器による追跡調査の結果見えてきたこと、分子系統学という研究分野の可能性、体毛の毛根部から抽出したDNAによる個体識別について紹介する。



電波追跡調査――森を走り丘で眠る雄グマ「トラジロウ」を追う

 ヒグマに電波発信器を付けてその電波を追跡し、ヒグマがどのような場所をいつ、どのように動き回り、どうやって暮らしているのかなど、さまざまなデータを収集する調査は、1977年と80年、道北・幌延町の北大天塩地方演習林で北大ヒグマ研究グループが行った調査に始まる。苦い失敗を重ね、捕獲、麻酔、追跡技術の確立や改良で、80年代後半に入って実用化されていった。
 首輪に付けた発信器から発信される電波が、どの方角から来ているかを、携帯用のアンテナと受信機で調べ、地図上に、受信した位置と電波の発信方向を記録する。そしてできるだけ早く別の地点に移動し、再び電波の発信方向を調べる。
 2地点から測定した場合は、受信方向が地図上で交わる場所を、3地点からの測定では、電波の発信方向で作られる三角形の重心をヒグマの位置とする。天候にかかわらず、来る日も来る日も、これを繰り返すのが、当時の方法だった。
 道南地方の調査では、雌ヒグマの年間行動圏が明らかになり、知床半島では継続的に追跡できた雌2頭について、行動圏が季節によって変わり、年によっても変動することなど、貴重なデータが得られてきた。
これらは現在主流となっている衛星を利用したGPS(全地球測位システム)を使う方式と違って、観測者が移動しながら電波を追跡するため、地形や道路網、時間帯といった制約が避けられない。電波が途切れると、林道や山道を走り回り、発信源を探さなければならない。1年を通じて雄の追跡が行われたのは知床半島の2例だけ。雌に比べ、行動圏が格段に大きい雄ヒグマの継続調査は困難とされていた。

高速道路下のトンネルをくぐった!
 その雄ヒグマの、4年間におよぶ困難な地上からの追跡調査が始まったのは、96年9月16日だった。苫小牧市郊外の勇払原野の森で、ヒグマがハチミツを狙ってミツバチの巣箱を壊したという情報が北大苫小牧地方演習林にあり、演習林長の青井俊樹助教授らが7月5日、ドラム缶を3個つなぎあわせたオリを現場近くに仕掛けていた。
 5歳の雄で体長2b、体重186`。測定を終え、首輪式の発信器と耳標をつけた。麻酔をうってから1時間後、ヒグマはゆっくりと起き上がり、森の中に姿を消した。追跡個体は「トラジロウ」と名付けられた。
 北大大学院地球環境科学研究科の早稲田宏一と青井の追跡調査が始まったが、約1週間後、トラジロウから、電波が途切れた。それまでトラジロウは、勇払原野の森からやや日高寄りの山中にいた。追跡班は山から山へ、電波を探し歩く日々が続いた。
 再び電波をとらえることができたのは樽前山の北側、支笏湖のほとりだった。電波は、シシャモナイ沢の一番奥の森から発信されていた。電波が毎日、同じ場所から届くようになって10日が過ぎた。だが冬眠に入るには早すぎる。
 ある日の早朝、トラジロウは突然移動を開始した。かすかな電波を頼りに、追跡班はその動きを追った。トラジロウはもと来た方角に向かっている。
 その日の午後4時半ごろ、発信器からの電波は、樽前山のすそ野を走る道央自動車道の近くまで来た。トラジロウが勇払原野の森に戻るには、この高速道路を渡らなければならない。青井は車で大回りして高速道路の反対側に出て、電波発信源の位置を調べた。高速道路の下を人が行き来できるアンダーパス(トンネル)のところで、受信機の針が振り切れるほど電波が強くなった。
 トラジロウはこの向こう側にいる。青井は1人でアンダーパスに近づいて行った。ここを抜けてトラジロウを探しに行こうか、あぶないからやめようか。迷っていたその時、真っ黒な大きな塊が、ジャンプしてアンダーパスから飛び出してきた。白い首輪をつけていた。すぐ近くにいた青井をジロッと横目でにらんだあと、ササが茂る目の前の森に入っていった。
 真っ黒な背中が茂みの中に見え隠れするのを、青井はただ見ているだけだった。我に返ったとき、青井の心臓はドキドキ脈打っていた。「どんなコースをたどるのか、見失ってはいけない」と、青井は気を取り直して車で後を追った。
 交通量の多い道路から20bも離れていない背の低い木々の茂みに、トラジロウがひそんでいるのを、青井は見つけた。その近くで深夜まで待っても、動く気配はなかった。追跡は早稲田が引き継ぐことになった。
 日が変わった午前2時、現場に着いた早稲田が電波を調べると、トラジロウはさらに東へ数`移動していた。道内で最も交通量の多い国道36号を横断し、国道に沿って広がるウトナイ湖のほとりの森に入ったきり、また動かなくなった。
 3日目の夜、トラジロウは、ウトナイ湖を挟んで国道36号と反対側の国道234号を越え、再び勇払原野の森へ入って行った。この4日間、トラジロウの移動を知っていたのは追跡班と、かぎなれない獣のにおいに気付いて1晩中ほえ続けていた人家の飼い犬だけだった。
 しかし追跡班は、勇払原野の森のトラジロウを数日間でまたも見失った。10日目、捜索範囲を日高地方に広げた11月2日、穂別町の市街地を見下ろす道有林の、太いミズナラが数多く残る森にいることが分かった。何日もその森にとどまっており、近づく冬眠の季節に備え、栄養価の高いドングリを腹いっぱいになるまで食べていた。
 トラジロウはどこで生まれ育ったのか。日高の山か、それとも樽前山周辺か、それは冬眠する場所で分かる。ドングリの森に3度目の雪が降った11月18日朝、トラジロウはまた移動を開始した。驚くような速さで、もと来た方角をめざす。電波が強く入った30分後には、もう圏外となった。
 トラジロウの目的地は、10月に1度来てしばらく動かなかったシシャモナイ沢の一番奥。支笏湖をはるかに見下ろす白老台地の冬眠場所だった。ドングリの森から直線で70`を、トラジロウは5日間で移動した。翌春の4月10日過ぎまで約130日間、トラジロウは飲まず食わずで、深い雪の下の冬眠穴で冬を越した。


森と森をつなぐ回廊を往来する
 発信器をつけてから2カ月余の間、トラジロウは樽前山の森と日高の森を、自由に行き交った。JR室蘭線、交通量の多い2本の国道、高速道路を3回横断しているが、2人の追跡班以外の誰にも目撃されることはなかった。
 樽前山周辺のヒグマは、「積丹・恵庭地域個体群」(通称・石狩西部地域個体群)と呼ばれるグループに含まれる。ヒグマの地域個体群の中で、生息域の分断と縮小が顕著で、環境庁が91年発行したレッドデータブックで、ヒグマとしては唯一「絶滅の恐れが高い地域個体群」に指定されている。
 冬眠に入る前、トラジロウが穂別町の道有林でドングリをたらふく食べていたのは、そこに行けばドングリがあることを知っていたからだ。言い換えれば、危険を冒してでもそこまで遠征しなければ、満足できる森は残っていないということかもしれない。その移動を可能にしたのは、勇払原野の工業基地の間にかろうじて残るベルト状の森である。樽前山と日高の山々をつなぐ細長い森が、野生動物が行き来できるコリドー(回廊)の役目を果たしていることを、トラジロウ追跡が明らかにした。
 追跡班は、トラジロウがとどまって活動していた場所を、後日できるだけ現地調査し、その痕跡や糞の発見に努めた。その結果、トラジロウがエゾシカを捕食した事例が3回確認された。捕食されたのはいずれも雄の成獣で、栄養状況はよく衰弱死したものではなかった。現場にエゾシカが逃げ回った痕跡もあり、トラジロウに襲われたと判断された。
 トラジロウの行動圏は極めて大きく、99年までの約3年半の追跡で918平方キロbを記録した。行動圏が大きいということは、それだけ広い範囲を生息地として確保する必要があるということであり、また人と接触する頻度も高くなりやすいことを意味する。実際に、道内で人間とあつれきを起こして捕獲されるヒグマは雄に偏っている。雄ヒグマの生態を明らかにすることは、ヒグマの保護管理を進めるうえで重要な意味を持っている、としている。



DNA分析――道内3系統の分布をつきとめた共同研究

 「ヒグマは3度、北海道に渡ってきた」―表現には慎重な研究者がこう発表したのは、分子系統学という研究分野におけるDNA分析の結果である。
 北海道のヒグマは道央―道北、道東、道南の集団ごとに、異なるDNAタイプ(遺伝子型)をもっていることが、北海道大学理学部付属動物染色体研究施設などの研究チームが突き止めた。3集団の祖先は、それぞれ異なる時代またはルートを経て渡来し、別々の地域に定着したことを浮かび上がらせた。
 同研究施設助手の増田隆一、北大大学院地球環境科学研究科の松橋珠子、北海道環境科学研究センターの間野勉(肩書きはいずれも当時)3氏による4年間の共同研究で分かった。
 92年から97年にかけて道内各地で捕獲された56個体から、ミトコンドリアDNAを抽出、分析した。検出された遺伝子型から、ヒグマを3グループに分けることができ、その分布は@道北―道央A知床半島から阿寒を中心とする道東B石狩低地帯以南の渡島半島を中心とする道南の3地域に分かれ、その分布境界線は明瞭であることが明らかになった。


「ヒグマの三重構造」と呼ぶ
 ミトコンドリアDNAは母系遺伝するもので、母親から子に受け継がれる遺伝子。雄グマの行動範囲は、数10平方`から数百平方`あり、遠く離れた場所まで移動するが、父親のミトコンドリアDNAは、子には遺伝しない。電波発信器を使った行動調査から、雌の行動圏は約20平方キロbにすぎず、この明瞭な地理的分布は、定着性の高い雌グマの保守的な行動圏によって形成されたと考えられる。
 北海道のヒグマは分類上、一つの亜種「エゾヒグマ」とくくられてきたが、少なくとも母系系統の異なる三つの集団から構成されていたことが分かった。極東の小島にすぎない北海道のヒグマ集団は、世界にも例のない3つの異なる系統から構成されるという特徴があり、研究チームはこれを「北海道におけるヒグマの三重構造」と呼んでいる。
 ヒグマは、世界で最も広い分布域をもつ大型哺乳類で、アジアで種が形成された。DNA分析で明らかになった3グループの祖先が枝分かれしたのは、約30万年前の更新世中期と推定された。ヨーロッパのヒグマ集団は、DNAデータに基づいて西ヨーロッパグループと東ヨーロッパグループに分かれる。また北米のヒグマは西アラスカ、東アラスカ、ロッキー山脈など4グループに分けられている。
 研究チームは、これら既存のデータと今回のデータを合わせて解析した結果、道北―道央グループは、東ヨーロッパと西アラスカのグループと同じ系列であることが明らかになった。またシベリア東部の集団もこれに近かった。少なくともスカンジナビア半島北部からシベリア東部、ベーリング海峡対岸の西アラスカまで、道北―道央グループと同じDNA系列が分布していると予測されている。
 世界の古地理図と照合すると、この広い地域は最終氷期(約1万2千年前まで)のツンドラ地帯にあたる。最終氷期には海面の低下でベーリング海峡や宗谷海峡に陸橋が形成されて陸続きとなり、それが渡来ルートとなった可能性が高い。古生物学的な証拠から、ヒグマは人類と同様、最終氷期にユーラシア大陸から陸続きとなった北米大陸に分布を拡大したとする考えと矛盾しない。

氷期の北海道はヒグマの避難所だった
 道東グループは、東アラスカ集団と同系列だった。道北―道央グループと同じ系列の西アラスカ集団よりさらに内陸に分布する集団で、彼らが西アラスカ集団より先にアラスカに渡る一方、別途サハリンを経て北海道に渡来してきたことをうかがわせている。
 道南グループの系列は、海外の既存データでは見いだされず、研究チームが入手したチベット(2個体)のヒグマに近縁だった。また道内の他の2グループとは大きい差があることが分かった。
 現在はヒグマが分布していない本州で、更新世中期から後期にかけた地層から、ヒグマの化石が発掘されている。また最終間氷期の約13〜60万年前には、石狩低地帯への海進と津軽海峡で、渡島半島は島化したことが知られている。これらのことから、道南グループの起源は、アジア大陸の南部に分布していた集団が、朝鮮半島を経て本州に分布を拡大し、さらに北海道に渡って来たことも否定できない。
 北海道のヒグマ3グループの祖先が、氷期にできた陸橋を経て、異なる時代またはルートで渡来してきたことは、ほぼ間違いない。北海道は、氷期におけるヒグマの避難所の役割を果たしてきたと考えられる。分子系統学から、渡来順は、まず道南グループ、そして道東グループ、最後に道北―道央グループと考えていい。
 遺伝子の追跡は、ヒグマが3度北海道に渡ってきたこと、ユーラシアや北米内、さらには大陸間のヒグマの移動史に関する情報だけでなく、考古学にも新しい展開をもたらした。
 ヒグマは、アイヌ文化のクマ送り儀礼(イヨマンテ)にみられるように、北東ユーラシアを中心とする北方民族の文化と深いかかわりをもってきた。
礼文島の、オホーツク文化の香深井1遺跡からは、儀礼的行為と考えられる、穿孔のあるヒグマの頭骨が、多数出土している。同島や隣の利尻島はヒグマが自然分布しておらず、ヒグマは島外から持ち込まれたと考えられる。増田隆一と北大総合博物館助教授の天野哲也(肩書きは当時)研究チームは、これら礼文島の古代ヒグマが生前に分布していた地域がどこかを同定するため、残留DNAを分析して道内3グループの分析結果と比較した。
 その結果、礼文島のヒグマからは道北―道央型DNAと、当時の続縄文文化の分布域に重なる道南型が見出された。さらに、犬歯年輪分析による年齢・死亡時期と照合すると、道南型をもつヒグマはすべて1歳未満の子グマで秋に死亡しており、道北―道央型をもつヒグマのほとんどは3歳以上の成獣で、春に死亡していた。道南型の子グマは、おそらく春グマ猟で捕獲された後、半年余り飼育され、儀礼に使われたと考えられる。
 死んだ子グマやその頭骨のみを礼文島人へ贈ることは考えにくいことから、生きた状態の子グマの授受が、文化の交流に重要な役割を果たしたことが予想される。このような子グマの捕獲、飼育、贈呈のシステムが成立するためには、子グマに対する価値観が、両地域の人たちによって共有されていたことが前提となる。
 礼文島の子グマからの道南型DNAの発見は、飼育型のクマ送り儀礼がオホーツク文化期にすでに始まっていること、その集団内だけでなく異文化集団との間のきずなを強める機能も果たしていたことを、うかがわせている。
 北海道では続縄文時代以降の遺跡から、ヒグマの遺存体が数多く発掘されている。その残留DNAの解析からヒグマの系統をたどることは、人の文化史についても新しい知見をもたらす可能性を秘めている。
(「遺伝」2002年3月号=56巻2号から)




ヘア・トラップ――体毛分析で個体を識別し生息数を推定する

 北海道にヒグマは何頭いるのか。研究者はこの問題に対するさまざまな推定を試みてきた。動物学者として、初めてヒグマを積極的に取り上げた北海道大学の犬飼哲夫が唱えたのが「3000頭説」である。
 1960年代の捕獲数が年間500頭前後で維持されていることから個体数は安定しているとみなし、自然死がその半数の250頭とし、死んだ計750頭と同数のヒグマが毎年誕生していると仮定して算出した。そのためには繁殖可能な雌が750頭いなければならない。未成熟や老齢で繁殖しない雌も同数存在するとすれば、雌ヒグマは計1500頭、雌雄同数なら合計3000頭となる。
 帯広畜産大学の芳賀良一は、戦前の25年から42年までの年間平均捕獲数(293頭)から、この時期の生息数を1800頭と推定。終戦前後の捕獲数が減少したこと、戦後はヒグマが、栄養豊富な農作物や家畜などもエサとし、栄養状態が向上して生殖能力が増大したため、生息数を3000頭まで押し上げたとした。
全道のヒグマの生息分布に関する最初の実証的な報告は、78年に行われた全国自然環境保全基礎調査の一環として実施された、アンケートによるヒグマの生息分布調査結果に基づくものだった。
 国有林や道有林、大学演習林などの協力を得て、山林での作業中に発見したフンなどの痕跡数を、延べ作業日数からその発見頻度を求め、生息密度指標とするもの。その結果、高度経済成長期に進められたパイロットファームや大規模装置の造成で、根室半島や根釧原野、宗谷丘陵の一部地域でヒグマの絶滅地域がみられること、またヒグマの分布が森林地域に限られることが浮き彫りになった。
 その後も同様の手法で、6〜7年おきに北海道によって実施されるようになり、70年代から80年代にかけて天塩山地、増毛山地、積丹半島から支笏湖、オロフレ山に至る「積丹・恵庭地域」では生息域の縮小・分断が著しく進んだことが明らかになった。その後90年代にかけても、顕著な回復は見られていない。今のところそれ以外の地域では、生息分布に大きな変化は見られないことが明らかになっている。


消失しないデータを広範囲で回収
 こうした明治の開拓期から蓄積された記録や、広域痕跡調査とは別に、クマの体毛からDNA(遺伝子)を取り出して個体を識別し、生息数を推定する方法が研究者の注目を集めている。
 ネズミやリスのような小型哺乳類の生息数推定には、一般的に「捕獲―再捕獲法」が用いられる。これは継続してワナをかけ、一度捕まった個体がどれくらいの割合で再び捕獲されるかというデータを基に計算する。エゾシカの場合だと、ライトセンサスという方法が使われ、夜間に一定区間を一定速度で車を走らせ、調査者がスポットライトを照らして、反射したエゾシカの目で個体数を数える。
ヘアトラップ クマの体毛を集めるのは「ヘア・トラップ」という装置。クマが届かない高さに誘引物を置き、その周囲を多角形状に地上約50aの高さで有刺鉄線を張る。誘引物で引き寄せられたクマが、有刺鉄線をくぐるか越えるときに有刺鉄線に引っ掛かった毛根を、後日回収する。
 毛根部からDNAを取り出し、その個体を識別して、「捕獲―再捕獲法」と同様、どのクマが何回ヘアーとラップに来たかを基に個体数を計算する。捕獲が難しいクマを、捕獲より広い範囲で、サンプルを偏りなく得ることが期待できるし、DNAという標識は、耳標のように消失しない。DNAから性別を判定できるという利点もある。
 問題点も少なくない。体毛が、いつ有刺鉄線に引っかかるか分からない。日光にさらされたり雨に打たれたりしているうちに、毛根部のDNAは劣化してしまう。回収後に有刺鉄線をバーナーで焼くなどして、取り残しがないようにしなければならない。分析には高価な機械や薬品が必要で、分析技術の習得など、予算と人員の手当ては欠かせない。
 調査地の選定、ヘア・トラップをどう配置するかなど、渡島半島地域を含め全国で、制度の高い個体識別の安定した技術を確立する検討が続いている。ヘア・トラップによって、クマを直接捕まえずに個体の情報を集め、生息数を推定する方法は、クマ研究に欠かせない技術となっていくとみられる。
 これまで個体識別は、足跡のサイズという痕跡や、毛並み、大きさ、顔つきなど、目視から経験的に行ってきた。だがこの技術は、人家近くに出没したり、農作物を食害したクマが同じ個体か、それとも別の個体か、駆除されたクマと同一かどうかの判定にも、道を開くことが期待される。
                                                      (林 秀起)



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