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プロローグ―――クマはヒトを映し出す鏡
近年、日本各地でクマとヒトのいろいろなトラブルが増え、特に人里および周辺での悶着・軋轢が多い。これらのトラブルあるいは出没・事故の要因を分析してみると、じつはクマ側の変化ではなく、むしろヒト側の暮らしの変化、あるいはヒトの作った環境にクマが反応したと考えられるケースが多い。クマは順応力や学習能力がとても高い生きものであり、特に近代以降、めまぐるしく変わるヒトの動向と環境変化に合わせるように生活パターン・生存戦略を変えてきた。つまり、クマはヒトを映し出す鏡のような生きものと言える。
特に中山間地域で過疎化・高齢化が進み、狩猟者の高齢化・減少も手伝って、元来「人里」が持っていた野性動物に対する「防衛力」、動物にとっては「近寄りがたさ」が失われつつある。現在のヒグマは、ヒトや人里に対しての警戒心を減じながら、人為物を食べ慣れつつある傾向が強いのではないか。
「山親爺」「山の忍者」の異名をとるヒグマだが、現在、クマとヒトの距離が近く危険度の高いのは山奥ではなく、むしろ人里周辺だろう。とりわけヒトに関わる経験が浅く好奇心旺盛な若いクマは、人里周辺に簡単に近づいたり、市街地に迷い込むことがある。誘引物(食べ物)を放置せずしっかり管理すること。「人を恐れないクマ」への対応の必要性が高まっている。「ここは大丈夫。ヒグマはいない」と思い込んでいても、じつはクマのほうが行動を変えて来ている可能性はある。
ここでは、釣り・山菜採り・散策などをする場合を念頭に、ヒグマの生息域に入るときに人間が心得るべきことを考える。
1.クマは「食べもの」で動く
―――ヒグマは食いしん坊
ヒグマの食生活を調べると、季節ごとに幅広く柔軟にメニューを変え、その地域でとても合理的な組み合わせになっていることに気づく。ヒグマの行動の多くが「食」に左右され、クマとヒトとの悶着・軋轢の多くは、この「食物」が原因で起きる。「クマは食いしん坊」だということをしっかり認識して、その理解のもとで「ヒト側の戦略」を考えてゆく必要がある。
北海道のヒグマの交尾期は6月前後だが、実際に受精卵が子宮内で着床し母体内で成長をはじめるのは約半年後の11月下旬から12月上旬。これを「着床遅延」というが、夏以降十分に食い溜めができなかった母グマは流産の恐れさえある。「食い溜め」が正常にできるか否かは、すべてのヒグマにとって冬を乗り切るうえでの死活問題だが、中でも子を産む母グマにとっては、単に生きること以上の意味がある。
サケマスの遡上の有無、シカの生息密度や駆除の実施状況、あるいは道内で唯一ブナの実を利用できる渡島半島など、道内各地では異なる要素があるが、現在の北海道のヒグマの年周期はおおむね上図に準ずるだろう。
2.ヒグマは知能が高い―――学習し変化・成長する生きもの
「ヒグマの知能はイヌと霊長類の間」という(北方圏フォーラムLarry Van Daeleら)。「高知能=好奇心旺盛=高学習能力」という特性から、ヒグマ一頭一頭の個性のばらつきは非常に大きい。
クマについて考える時、このフロー図を頭におく必要がある。前述の「クマは食いしん坊」と考え合わせると、我々が山に入ってゆくときに「何をしたらマズイか」、あるいは、どういう場合に「何をしなければならないか」が見えてくるだろう。ヒグマの場合、人為物を食べることを経験・学習することで「執着」「常習化」が起こり、それを漫然と放置すれば「行動のエスカレート」に至る。 その結果、ヒグマが本来持つべき「警戒心」が希薄になり、ヒトに対して攻撃的になったり、もともと「こそ泥タイプ」だったのが徐々に「強盗タイプ」に変化したりする。カムチャツカにおける星野道夫の死、そして史上最悪のヒグマ事件と言われる苫前町の「三毛別事件」には、人為物を食べ慣れたヒグマの「行動のエスカレート」が関与していると考えられる。
つまり、人里でも山奥でも、とにかくクマには「人為物の味を覚えさせない」ことが、ヒト側の最初の戦略になり、ここでつまづくと、その後の対応が一気に難しくなる。
3.無知で無邪気で好奇心旺盛な若グマ
フロー図から見える重要な側面は、クマが「学習して変化する生きもの」という点だ。
ここで親に連れられたクマを「子グマ」、親離れから3年以内程度のクマを「若グマ」と区別してみる。親離れ時期は生後1年4ヶ月程度から2年半くらいまで幅があり、生まれた年の後半に親からはぐれて単独で活動しているクマも含めると、問題を起こしがちな若グマの年齢は、生後9ヵ月から5歳くらいまでと幅広い。
若グマは、まだ経験・学習が乏しく警戒心が希薄だ。もともと持つ「好奇心」に「無知」「無邪気」が加わることで、ともすると無防備で不注意な行動をとってヒトと問題を起こす場合がある。
典型的な若グマの行動は、ヒトへの「好奇心による接近・じゃれつき」だろう。通常、クマによる人身事故は自動的に「襲われた」と認識され、メディアもそのように画一的に表現する。しかし、「襲われた」事例をよく見てみると、「じゃれつかれた」場合が浮上する。この若グマ特有の行動は、仔犬の「甘噛み」「飛び付き」と似ているが、これを漫然と許し、長引かせてしまうとヒト側の大怪我にもつながる。もちろん、走って逃げるのは本気の攻撃を誘発しかねない
この無邪気で危うい若グマも、経験・学習を積み、用心深くなって次第に一人前になるが、最終的にクマという野生動物の個性はばらつきが激しい。また、ヒトと遭遇した時間・天候・場所・人数などに加え、ちょっとした気分によってもクマの行動は変わってくる。
また、若グマでなくとも、至近距離で突然出遭った場合には、クマのほうだって恐い。驚きあわてて過剰反応をしてしまうことがある。自分や子を守ろうと攻撃的になる場合もある。ヒトのほうはもちろん大いに驚き、落ち着いて正しい対応をとることが難しい。バッタリ遭遇に対応する単純で確実なマニュアルを作ることが難しいゆえんである。
一方、出遭わないようにすることは容易である。いくつか簡単なポイントを踏まえて、十分に注意して行動すれば、ヒグマが高密度に生息する知床のような地域でも、ほとんど出遭うことなく行動することができる。
このことから、ヒグマ事故を避ける基本としては、「出くわしたらどうするか」ではなく、「どうやったら(悪いシチュエーションで)出くわさないで済むか」というところに、焦点を持ってこなくてはならない。
ヒグマの成長と警戒心
ヒトに関わる経験が浅く、無邪気で好奇心旺盛な若グマが成長するにしたがって何を獲得するか。ヒグマの成長とは、一言でいうと「孤立性」と「警戒心」を獲得してゆくことだろう。特にオスはこの傾向が顕著だ。通常その警戒心を発揮しヒトとのいざこざを避けて暮らすヒグマだが、本当の攻撃(
real charge
)に移った場合、それは強い警戒心の元でとった戦略が破綻した場合なので、攻撃自体は強烈で、ヒグマの破壊力が瞬時に発揮され、一撃でヒトは深刻なダメージを負うことも多い。
臆病でもあるヒグマが自ら好んでヒトを攻撃することはまずないが、偶発的に切迫したり、ヒトが追い詰めたりすると、攻撃に転ずる場合がある。ただ、この攻撃はあくまで自己防衛のために咄嗟に起こされる行動なので、延々続くことは少ない。クマとの「バッタリ遭遇」にともなって本当に攻撃を受けた場合に、むやみに抵抗してかえって激しい攻撃を受けることを避けるために、うつぶせになって無抵抗の状態をとる方が重大な傷害を負わずにすむ可能性が高いと北米で推奨されている理由である。
まず、バッタリ遭遇のときに見せるクマの攻撃行動のほとんどは、「切迫」「おびえ」「びっくり」が原動力となっている。ヒト側としては、積極的に闘いを仕掛けるよりも、警戒心の強いヒグマの心理に働きかけ、いかに遠ざけるかを考えるべきである。
ただし、この警戒心はそれぞれのヒグマの経験・学習によるものなので、ヒトの振る舞いによっては、無警戒で呑気なクマもできあがる。
無警戒なヒグマは二つに区分でき、ひとつは人為物を食べ慣れて徐々にヒトへの警戒心を欠落させていく「餌付け型」。そしてもう一つが、多くの無害なヒトに接することに慣れ、ヒトの存在そのものに無関心になっていく「無関心型」。後者はカトマイ国立公園ブルックスキャンプや、アラスカ州立マクニール野生動物保護区などの北米のヒグマ観察地で見られる姿が代表的で、この状態が必ずしも悪いとはいえない。しかし、無関心型のクマと、対応教育が不十分なヒトが出会ったとき、人身被害の危険が増大する。したがって、知床・大雪などの国立公園でしばしばみられる人慣れ型・新世代ベアーズに対しては、ビジター(公園利用者)への十分な制御・教育が必要不可欠となる。
北米では、クマ生息地のことを「ベアカントリー
(
クマの森・クマの土地)」と呼ぶことが多い。この印象的な言葉を使うことで、観光客やキャンパー、釣り人に効果的にクマの存在を印象づけている。
我々がベアカントリーの踏み入る前、まず重要なことは
「クマの存在をしっかり意識する」
ということだ。「風説」や「思い込み」ではなく、マニュアル暗記でもなく、「クマを正しく理解する」というところから
―
つまり、姿の見えない恐ろしいモンスターではなく、山に普通に暮らす野生動物として理解するところから、合理的なリスクマネジメントは始まる。
山で常にビクビクと怯える過剰反応の人がいる一方で、クマへの意識や理解を欠き、平気で危険な行動をとる人もいる。クマの住処に「お邪魔させてもらう」という謙虚な意識を持つことで、クマへの理解を深め、ベアカントリーを自由な気持ちで歩き、全身で感じ取ることができるだろう。
ヒト側の戦略を考える前に、まずヒグマ側の行動を考えてみよう。
若グマ・餌付けグマなどを除く普通のヒグマは、基本的にヒトには関わろうとはしない。何らかのミスでヒトの接近を許してしまったヒグマは、以下の表のように、その状況に応じた行動を取ることが多い。
我々の目的は、下表のヒグマの行動を下表のレベル1から2にとどめること。逆にいえば、レベル
3
にまでヒグマを追い詰めないことだ。
例えば山の中で、強いケモノ臭を感じるときがある。実際にヒグマが至近距離にいることも多い。鈍感なヒトがヒグマを感知できないだけで、意外なほどヒグマは我々の近くにいる。ヒグマ側がヒトをうまくやり過ごしてくれているわけで、仮に
5m
の距離にヒグマが潜んでいても、それがすぐ事故につながるわけではない。
【
ヒトが接近した場合のヒグマ側の戦略
】
ヒトの存在を感知すると―――
レベル 1:
1
.
前もって遠ざかる
…
大半
:
ヒトは認知できないことが多い
2.そそくさと遠ざかる
…たびたび
:
ヤブをかき分ける音だけで認知できる場合がある
3.ササ藪に潜む
…意外に多い
:ヒグマがいったんこの戦略をとると、しばらく動かない
距離が縮まり切迫すると―――
レベル 2:
4.近距離からの大逃亡
……
たまに
:潜みきれず一気に逃走を図る
5.威嚇攻撃(bluff charge)
……
まれ
:
威嚇のための突進(はったりの攻撃)
レベル 3:
6.本攻撃(real attack)
……
ごくごくまれ
:(=PanicCharge)
自己防衛の最終手段
ヒトがベアカントリーに入ってゆく場合、そのエッセンスを絞れば次の3つになる。
1.ヒトの存在・接近をアピールする
ヒトの存在を知らせることは、臆病で非攻撃的な野生動物であるクマに、ヒトを回避する行動と時間の余裕を与えられる。あくまでアピールであって、威嚇ではない。
クマは
「嗅覚の動物」
と言われるが、においは風向きに左右されやすい。通常は音によってヒトの存在をクマに知らせる。クマの痕跡・植生などから行く手の状況を判断し、「怪しいな」と思う場所の手前で「ほーい!ほい!!」「通りますよお!」などと大声で呼びかけたり、「パン!パン!」と手を叩いてアピールする方法がある。この習慣によって、自分自身もクマの存在を意識し、周辺に気を配り、「クマの存在を読む」くせが身につく。
クマよけの鈴も悪くはないが、鈴がチリンチリンと常時鳴ることで、周囲の音が聞こえなくなり、さらには「観察」「読み」「判断」という大事な感性をおろそかにしてしまいがちだ。
例えば、沢筋や滝、風雨など、鈴の音程度では不十分な場合もある。現場の状況に応じてアピールの度合いや方法を変えることが大事なのだ。
なお、爆竹などの破裂ものは、近くに潜んだクマを驚かせ飛び出させるなど、逆効果のこともある。轟音玉・爆竹・ロケット花火は、ゴミを残すことにもなるので、登山やハイキング、山菜採りなどのレジャーでは避けるべきだろう。
このアピールというのは、それでもクマが眼前に現れた場合、そのクマがどういうタイプかを判断する材料となる。少なくとも、ヒトの接近に気づきながら近くに現れるクマは、よほど無関心か、何らかの意図で近づいてきたと判断できるだろう。
2.食物の管理をしっかり行う
「人為的な食べ物の味をおぼえさせない」ことは、自分のため、そして次に来る人のために大切なことだ。
ジュースを飲み干した缶やペットボトルをポイと捨てたとする。ヒグマがジュースのにおいを嗅ぎ当て、ボトルを噛みちぎって中の数滴をなめる。そこで、クマはおいしいジュースとヒトを関連付けて覚えてしまう可能性がある。そのクマは、逆にヒトを感知すると「おいしいジュース」を思い出す。そして、ヒトに接近するようになってゆく・・・
数滴のジュースもエビフライのシッポも弁当箱に残った肉汁も、およそ我々が食べたり飲んだりしている食物は、山の野生動物にとっては特別な味・香り、少し大げさに言えば、麻薬的なものかもしれない。
登山道入り口や釣り場の駐車スペースにたびたび現れる個体、あるいは釣り人のあとをついてくる個体。これらは何らかの形で人為物を食べたり飲んだりした経験があるクマと疑われる。渓流の遡行や山行であれば
、時間をあけて何度も同じクマを見かけたら、「ヒトへのつきまとい」と考えて、撤退するのが賢明だ。
また、野営する場合は、食料の管理を徹底する。ベアプルーフコンテナという、クマの爪や歯がかからない樽型の強化プラスチック容器に食料を入れて、テントから離れた場所におくという方法がある。キャンプ場によっては、安全な食料ボックスを備えている所もある。においのついた食器や残飯も同様に扱う。北米では、テントと炊事場、食料置き場の三つをそれぞれ約100メートル離れた三角形に配置する、というルールがある。
訪れた渓流・山塊にゴミが落ちていたら、拾う癖をつけるのがいい。生ゴミをなくせば、自分ばかりでなく、そこに後から来る人をも守ることにつながる。
北米では、左図のようなハングアップ方式が普及している。原則的に、二本の樹にロープを渡し、その中央に食糧袋をぶら下げる。地面に立って、あるいは樹に登って食糧を奪おうとしたクマの手が届かない位置に食糧を上げてしまう。
カラビナを滑車代わりに使うと、うまくいく。
3.誘引・刺激しない
食物の管理に準ずるが、歯磨きペースト、石鹸、シャンプー、オーデコロンから飴・ガムまで、ヒトの世の香料はクマを誘引、あるいは刺激する可能性がある。ベアスプレー(クマ撃退スプレー)はヒグマの撃退物質ではあるが忌避物質ではない。遠くからそれを嗅ぐクマにとっては、むしろ誘引物質たりうる。
クマの「においの学習」は、はじめて感知するにおいには接近を試み、警戒心と好奇心のバランスの中で、それの「危険度」と「おいしさ・面白さ」を確認する。「おいしくて危険はない」と学習すれば、次回からそのクマの中でそのにおいは「誘引要素」として働き、「危険だ」と学習すれば「忌避心理」を抱くようになるだろう。「おいしくも面白くもない、危険もない」と学習すれば、クマは反応しなくなる。この状態が上述「無関心型無警戒」グマである。
ただ、ここで一つ問題がある。無警戒な「若グマ」だけは、食物抜きに単純な好奇心でヒトに近づいたりする。この場合は、若グマの「好奇心を刺激しない」ように努め、釣り竿を振ったり、写真を撮るなどの行動も控えて、その場を離れるしかない。
―――遇わないための8か条―――
1.ゴミ捨て厳禁!―――危険なヒグマを作らない!
人為食物は山の野生動物にとってはどれも特別な味。食物・ゴミの管理は厳格に!
「生ゴミ」をはじめ、「ガムや飴」「空き缶」「ペットボトル」などもヒグマを誘引し、あとからそこを訪れる人を危険にさらしかねない。山菜採り・釣りなどでも食糧の携帯はできるだけ避け、飲料はヒグマを寄せつけにくい「水・お茶」がおすすめ。
2.ヒトの存在をアピール!―――ヒグマに行動の余裕を!
ベアカントリーを歩くときは、「声と拍手」など、音で随時ヒトの存在・動向をヒグマに知らせながら行動する。
ヒグマは「嗅覚」「聴覚」が非常に発達しているが、「におい」によって人間の存在をヒグマに知らせる方法は風向きによって不安定なので、「音」でヒグマを遠ざけるようにする。ただし、爆竹などを鳴らすと、近くに潜んだヒグマを驚かせる可能性があるのでやめた方がよい。
3.できるだけ複数で行動する―――信頼できるパーティーは強い
複数で行動すれば自然に騒がしくなりやすく、ヒグマとのバッタリ遭遇は少なくできる。また、仮に出遭ったとしても、単独行動と比べ、心理的にも物理的にも有利である。4人以上の集団に本攻撃を仕掛けるヒグマは非常にまれだ。
複数で行動していて、ヒグマに気づいたときは、すぐに集まろう。手をつなぎ、横に広がるのも大きく見えて有効だという。少なくとも、パニックになってばらばらに逃げ出さないよう、「手をつなぐ」は単純だが有効だ。ツアー登山や遠足などで人数が増えると、ヤブに潜んだクマを取り囲むような形も起きかねない。その場合は、数人のグループを作ってそれぞれにリーダーをおき、グループ間は距離をあける。
4.ヒグマのサインを見落とすな!―――五感をフルに使って歩く
「糞」「食痕」「足跡」「爪痕」「クマ道」から「風」「におい」まで、ヒグマの痕跡・存在に常に気を配ろう。
ヒグマには、いわゆる「なわばり」(テリトリー)はないが、山で暮らす中で自然にいろいろな痕跡が残される。特に、新しい痕跡には十分注意しよう。ひたすら地面を見て登山道を歩いたり、釣りや山菜採りに夢中になるのは危険だ。
5.朝夕はヒグマと遇いやすい―――基本的にヒグマはヒトを避ける
夜間のほか、早朝・夕方・霧・雨など視界の悪いとき、風が強いときは林道歩きも危ない。
ほとんどのヒグマは人間の接近を感じ取るとすぐに遠ざかるが、「どしゃ降りの雨」「強風」「夕暮れ」など、あたりの状況が分かりにくいときは、「バッタリ遭遇」が起こりやすくなる。
通常、ヒグマが人里へ降りる理由は食物(エサ)がらみだが、「夕暮れ」「早朝」は、いわばヒグマのエサ場への通勤時間帯で、ヒトとの遭遇も多くなる。特に8〜9月のデントコーン畑はヒグマが誘引され頻繁に活動している場合があり、見通しも悪いので、日中でも注意が必要だ。
6.「甘い香り」を持ち込まない!―――ヒグマを刺激しない・誘引しない
「嗅覚の動物」ヒグマは「におい」には極めて敏感に反応する。
ベアカントリーに入る際は、香水類(オーデコロン、ヘアトニックなど)、化粧、飲食物などヒグマを誘引したり刺激したりする「香り」を身につけないように心がける。意外と盲点となるのが「食事をとるタイミング」。例えば、焼き肉を食べた後は、吐息や衣服がにおいを発散している。
7.悠々と歩く―――ヒグマの「潜む戦略」を成り立たせ、ペットは連れ歩かない
ヒグマの身を隠せるヤブなどの近くでは、「急に止まる」「進路を変える」などの動きは避ける。ベアカントリーでは、訓練されていない普通の犬はトラブルの元だ。
人間の接近を知ったとき、ヒグマがヤブに潜むのは、ヒトを襲うためではなく、隠れてヒトとの衝突を避けるための戦略だ。このヒグマの戦略を成功させてやるために、ヒグマの生息地では「犬を連れて歩く」「ジョギング・サイクリング」は原則避ける。路傍のヤマブドウの実に手を伸ばしたら、ヤブを蹴散らかしてヒグマが逃げた、などという例もある。
ジョギングやサイクリングは音が静かで、移動速度が速いので、隠れようとしていたヒグマに曲がり角でバッタリということがあり得る。
犬はヒグマを刺激するだけではなく、怒ったヒグマを連れて飼い主の元に逃げ戻る場合もある。
訓練されていない普通の犬をヒグマの生息地で放して歩くのは極めて危険。
もし犬を連れる場合、引き綱は必ずつける。
8.シカの死骸からは速やかに退避!―――シカは山の地雷?!
「エゾシカなど大型動物の死骸・残骸」はヒグマの好物であり、周辺はとりわけ危険だ。もし、エゾシカの死骸に気付いたら、すみやかに来た道を戻ろう。
ヒグマは、一度に食べきれないシカなど大型動物の死骸を見つけると、土や草、雪などをかけて一時的に保存する習性を持ち、その近隣に潜んでいる場合がある。ヒグマが一度手に入れたシカ死骸への執着と独占欲は
高く、接近しないのが何より。土まんじゅうから足や角が突き出ているのを見かけるが、これを迂回するのも危険。「来た道をそのまま戻る」に限る。特にシカ猟や駆除の盛期は、回収不能や手負い個体の死骸が人里・農地周りで増えている。
海岸歩きでイルカやトド・アザラシの漂着死体を見つけた場合も要注意。海獣類の死骸の匂いは、強烈にヒグマを誘引する。
いわゆる「バッタリ遭遇」では、だいたいヒトのミスや油断・不注意が絡んでいるが、仮にいろいろな注意・工夫をしていても、クマに出遭うことはある。近距離にクマを見た瞬間、「クマだ!」と動揺するのは仕方ない。が、ここで、目の前のクマが「どういうクマなのか」を、できうる限り冷静に捉えるよう心がける。
野外でのヒグマとの遭遇・トラブルは「バッタリ遭遇型」が最も多い。そしてまれに「若グマ好奇心型」「餌付け型」がある。知床・大雪山系など特定の地域では「人慣れ型」もある。それぞれのタイプのクマに対して、基本対応は異なる。
タイプ
遭遇原因
行動原理
行動の特徴
バッタリ遭遇型
偶発的
切迫・怯え・びっくり
自己防衛のための咄嗟の攻撃・逃亡
若グマ好奇心型
意図的
興味・好奇心
無邪気で刹那的な接近・じゃれつき
餌付け型
意図的
食物目当て
執着・常習化もしくはエスカレートあり
人慣れ型
偶発的
無関心・警戒心希薄
ヒトを無視して呑気に振る舞う
1.「バッタリ遭遇型」→なだめながらゆっくり距離をとる
このケースでは、クマと遭遇した我々よりクマの方がびっくりし切迫した状態だろう。クマも恐怖におののき、逃げるべきか、身を守るための行動に出るべきか、激しいストレスの中で葛藤している状態になる。カプカプと歯を打ち鳴らしたり、唸りながらよだれを出したりする様子が見られる。そのようなクマに対しては、刺激せず、できるだけゆっくりとした動作で遠ざかることが必要。万が一クマが突進してきても防ぎやすい立ち樹の後ろなどに回り込みながら退避するのも良い。
ここで世間に流布されているが、やってはならないことの一つに、「持ち物を置いてクマが興味を示している内に逃げる」というものがある。背負っているザックなどをおいて、クマの興味を引きつけるというものだが、多くの場合、その中には弁当やおやつなどが入っているはずである。ヒトを脅しつけたら美味しいものが手に入るということを学習させてしまい、危険なクマを創り出すことになる。その人自身は助かっても、後からそこに来る人々を危険に陥れることになる。さらに、後で述べるが、万一、ヒグマに攻撃された時に背中を守る貴重なプロテクターを失うことにもあるのだ。
また、誤解してはならないのが、ヒグマが立ち上がる行動である。立ち上がってパンチをくらわせるのではないかと誤解している人が実に多い。立ち上がる行動は、何者かが近くにいることに気付いたが、その対象を確認できずに、視点を高くし、耳と鼻で音や匂いを感じとろうとしている行動だ。他のクマやシカと誤認してしまっている時もある。こんな時は、切り株や石の上などに上がって体を大きく見せ、ゆっくり腕を大きく振ったり、静かに話しかけて、こちらがヒトであることを気付かせてやると良い。ほとんどの場合、ヒトだと気付けば逃げていってくれる。
時にバッタリ遭遇の際にヒグマは威嚇してくることがある。激しく突進してきて、唸ったり歯をカプカプと打ち鳴らしながら地面や立木を殴りつけたりする。いったん戻っていって、繰り返し突進してくる場合もある。その多くがbluff charge(ブラフチャージ・はったり攻撃)なる「見せかけの攻撃」だ。突進してきてもほとんどの場合、途中で止まる。難しいことだが、突進を受けても大声を出して騒いだり走って逃げてはならない。クマも遭遇に驚き、恐ろしくて自己防衛のための威嚇行動に出ているのだ。そこでクマを刺激するようなことをすれば、本当の攻撃に移行してしまいかねない。また、突進を受けて走って逃げては追跡行動や攻撃行動を誘発する。走っても逃げきれるわけはない。威嚇突進は、そこから立ち去れ!というサインだ。クマにとって許せない距離にまで人が近付いてしまったり、子グマがいたり、シカの死体など守っている餌がある場合におこりやすい。その場に留まっていてはならない。複数の人がいたら皆しっかり集まって、静かに本当にゆっくりとその場を離れるべき。残念ながら威嚇突進の行動は激しく、突進が起こった瞬間に「はったり」か「本気」かを見分けるのは困難だ。
まさに4〜5mを切る距離まで突進して迫ってきた時に、撃退するにはベアスプレー(クマ撃退スプレー)が有効だ。遭遇から間髪入れず突進に移るクマも多いので、スプレーは瞬時に抜いて構えられるように持っておく必要がある。
バッタリ遭遇で、もし本当に攻撃されてしまった時、中途半端に応戦すると、クマをさらに興奮させてより激しく攻撃される可能性も高い。「うつ伏せ防御」姿勢をとるのも一つの方法だろう。「うつ伏せ防御」とは、腕で後首を守りつつ、足を開いてうつ伏せに寝転ぶ方法。足を開くのはひっくり返されづらくする意味だ。仮に筆記理帰されても、すぐにうつぶせ姿勢に戻って腹部を守る。リュックを背負っていれば、背中を守る良いプロテクターとなる。足を縮めて腹部を守る方法もある。ある程度の怪我は覚悟して、致命傷になりやすく、止血の困難な、首や腹部を守るという考えだ。
ここで注意しなければならないのは、遭遇直後になにもせずおこなう「死んだふり」ではないということだ。攻撃を受けてもいないのに「うつ伏せ防御」姿勢をとると、いったい何事かとかえって興味を持って寄ってきてしまう可能性がある。北米ではそのような間違ったタイミングの「死んだふり」で負傷した例がいくつもある。
バッタリ遭遇型では、とにかくこちらの「非敵意」「非攻撃性」を示すのがポイントだが、攻撃が始まったときに確実にそれらをクマに示す手段が「うつ伏せ防御」だ。
同じ理由から、「眼をにらむ」というのはお勧めしない。野生動物に対して執拗にアイコンタクトをとることは、敵意として受け取られる可能性が高い。クマを見るとしても、むしろ視野の隅に入れ、手は動かさず下にさげたまま、ゆっくりとした動作で、というのが基本となる。
「切迫グマ」6態
怪訝な表情。こちらの存在を快く思っていない。速やかに進路を譲り、距離をとる一手。
「追い払い」の最中、道と平行に左右に動き出したこのクマは最終的に30mの距離から若グマ特有の中途半端な突進を開始した。
ビビッて切迫しているが、これ以上追い詰めるとbluff chargeがあり得る。耳に注意。
ヒグマの走破性能・ダッシュ力はいざとなるとすこぶる高い。
バッタリ遭遇ではないが、シカ用電気柵の農地内に閉じ込められ逃げられない若グマ。
霧のかかった牧草地、80mまで忍び寄ってみたが、シャッター音でこちらを認知。開けた場所では切迫の距離は長い。
2.「若グマ好奇心型」→「相手にせず距離をとる」
または
「強い態度で」
若グマ型の特徴は、「ウロウロする
(
躊躇する)」「キョロキョロする
(
注意散漫
)
」の他、表情にその好奇心が表れる場合も多い。フラフラと近づいたりする個体は、ほとんどこのタイプだろう。このクマは気分で動いているので、興味を失うとさっさとどこかへ行ってしまう場合も少なくない。
「無警戒な好奇心」に対しては、「警戒心を上げてやる」か「興味を削ぐ」か、どちらかの方向性がある。
「相手にしない」というのは「興味を削ぐ」という意味で、具体的には「無視するふりをして撤退」することになる。近くに車など避難できるものがあれば、速やかに退避した方が良い(けっして走らずにゆっくり)。
ストレスを感じて焦っているでもなく、フラフラと興味を持って近くまで寄ってくるような若グマの場合で、退避する場所や手段がない時には、強い態度で臨むべきである。切り株や石の上などに上がって体を大きく見せ、腕や棒を激しく振ったり、大声で威嚇して追い払うべき。おびえた態度を示してはならない。
より積極的には、老若男女・年齢・腕力を問わず、精神的技術だけで誰にでも安定して効果の発揮できるベアスプレー(写真は、商品名カウンターアソールト)が効果的だ。興味本位でヒトに近づくクマに対してのベアスプレーの撃退率は非常に高い。
ただし、多少でも警戒しながら近づく若グマなら、こちらの態度や音で威嚇することで逃げ去る場合も少なくない。
「無知で無邪気で好奇心旺盛」な若グマ6態
このクマは40mほどで遭遇し、やりたいように振る舞わせてみたが、好奇心が特に旺盛で、薮に入ってゆっくりと近づき、最終的にベアスプレーの射程内にまで入ってきた。
若グマ特有の軽やかなステップで接近。このタイプはあれよあれよという間に距離を縮めてくるので、スピーディーな判断が要求される。
道路脇のアリに執着した若オス。食事を邪魔されつつ、興味をこちらに向けてきている。観察ポイントは、鼻・耳・目。
ヒグマが立ち上がるのは、その大半が攻撃のためではなく、曖昧な警戒心をもって興味の対象を確かめるため。手を高々と振ってやるくらいで多くは退散してくれる。
陽の昇り切った時刻になっても、このように姿を露わに農地で遊んでいるヒグマはだいたい若グマだ。いわゆる「異常グマ」ではない。
顔はあらぬ方向を向いているが、意識はしっかりこちらに向けていると、右耳が物語っている。何か考え事をしているようにも見えるが、この状態からの突進が、若グマの場合は意外と多い。斜面上方のヒグマは特に要注意。
3.「餌付け型」→有利な条件をそろえ迎撃
人為的な餌になれ、ヒトにつきまとうクマがまれにいる。警戒心が残っていれば、「遠ざかる」「大声や音で追い払う」という方法がある。だが、執着の度が過ぎると、「なだめる」「無視する」「遠ざかる」「うつ伏せ防御」などの方法は通用せず、本当の攻撃を受ける可能性もある。その場合、できるだけ有利に迎撃できる地形や樹木を利用し、スプレー、ナタ、ピッケル、石、棒など利用できるものすべてを使って撃退するしかない。
このタイプは、存在すること自体が脅威となるので、ゴミの投げ捨てなど無意識な餌付けも含め、「餌付けグマをつくらない」ことを観光客・住民・行政・ハンターなどそれぞれの立場で徹底していく必要がある。
4.「人慣れ型」→騒がず速やかに距離をとる
いわゆる新世代ベアーズと呼ばれるヒトに対しての警戒心乏しい無関心型。知床半島や大雪山の高山帯などに出現し、他の地区でも観光客やキャンパー、釣り人が多い場所では、特に若いクマにこのタイプがたびたび見られる。人慣れ型は「ヒトは危害を加えて来ない」と学習し、ヒトをなめている傾向にあるが、ヒトが騒がしくしたり接近したりすると「いら立ち」を示すことも多い。その苛立ちが攻撃に転じる可能性は大いにあり、甘く見てはいけない。
距離100mでヒトの存在を知りつつ悠々と振る舞うようなクマは大なり小なり人慣れ型の可能性があるが、その場合、こちらもちょっと悠々と眺め、そのまま立ち去ればいいだろう。距離が半分の50mなら、眺めるのはあきらめて、すみやかに距離をとるべきだ。「無関心」から急に「いらだちの攻撃」に転じることもあるので、たとえ車から見かけても降りてはならず、窓も開けないほうがいい。静止したヒグマがダッシュすれば、100mを10秒ほどで駆け抜けてしまう。
人慣れ型は、自分が行きたいと思った方向にヒトがいても気にしない。かまわずのこのこと歩いてくることがある。そのような場合、「若グマ好奇心型」や「餌付け型」の危険な個体が近寄ってくる場合と見分けをつけづらい。人慣れ型っぽいクマが向かっている方向に自分がいた時には、まず、大きくよけてクマに道を譲ってやる。単なる人慣れ型ならそのまま通り過ぎてゆく。もし、道を譲っても、向きを変えて近付いてくるようなら、「若グマ好奇心型」や「餌付け型」の可能性がある。
■補足
いずれにも1〜4で共通するのは、もし複数行動なら、「グループがまとまり、決してばらけない」ということ。複数人数の被害の場合、ばらばらに逃げ出したり、孤立したときに被害が起きている。複数の人がいるところに突進するのは、よほど攻撃的なクマでないと考えにくい。
ナタなどの刃物は、これを使いこなせる技術と精神力がある人にとっては有効だろうが、一般にはおすすめしかねる。パニック寸前でナタを振り回すのは自傷の可能性も高く、ましてグループが固まった状況では危険だ。ナタや銃器は山の道具として役立つが、クマに対する防衛器具として用いることは避けたほうがいい。
実際の現場では、仮にクマと静かに対峙した状態が続いても、どのタイプのクマか見分けられないことも多いだろう。最悪の「餌付け型」を念頭に置きつつ、まず「バッタリ遭遇型」の対応をとり、クマの反応を見て、「若グマ型」対応にシフトするという、臨機応変なクマとの「やりとり」を行うことになる。
これに加え、自分が活動するエリアのクマの傾向を事前に知っておくのも大事だろう。例えば、先述した知床や大雪では新世代ベアーズが多いとか、日高のこの渓流では釣り人についてくるクマがいるとか。そういう情報があれば、できるだけ吸い上げて持っておくと、対応は少し楽になる場合もある。
遭遇といってもヒグマのタイプによってパターンはまったく異なる。そして、同じタイプのヒグマでも性格や気性が異なり、高知能なヒグマはちょっとした気分によっても行動を変える。つまり、いくらマニュアルをつくってもヒグマは画一的に動いてくれず、100%大丈夫という手段は存在しない。「出くわしたらどうするか」ではなく、「(悪い状況で)出くわさないためにどうすればいいか」を考えたほうがいい。同様に、餌付けグマをつくらないことも重要だ。ヒグマのリスクマネジメントは、問題が起きてしまう前に、問題が起きないように先手先手で原因をコツコツ消していくことなのだ。
いろいろな戦略はあるが、ヒグマと折り合いをつけるコツは「間合い・距離感」だろう。架空の動物かモンスターのように怖れる必要もなく、近過ぎる存在でも危険は高まる。
豊かな山があり森があり川がある。そこには恐ろしげで素晴らしい生きものが暮らしている。そこへ踏み入って自然の豊かさを感じ、恵みを少しいただく。それが、山へ入る者の喜びでもあり真骨頂だろう。
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(岩井基樹/山中正実/山本牧)
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