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1970年7月、日高山系カムイエクウチカウシ山(標高1979メートル)で起きた福岡大学ワンダーフォーゲル部のヒグマ事故は、若い学生3人が死亡する結果となり、登山者や一般市民に大きな衝撃を与えた。
ヒグマの事故の中で、実は登山者の死亡例はごく少なく、全体の1割にも満たない。最も多いのは狩猟中で、釣りや山菜採り、森林作業中などがこれに次ぐ。
ヤブの中を夢中で採取する山菜採りや、音が伝わりにくい渓流釣りなどに比べ、登山者は「いきなり遭遇」型の事故は少ない。だが、今回のように執拗につけ回す、異常なタイプは人間に大きな恐怖を与える。どうしてこの加害ヒグマは、「異常なクマ」になったのか。
若い岳人の死は痛ましい。いくら反省の言葉を並べても彼らは帰ってこない。死者やその周囲の過失をあげつらうのではなく、死を招いた経過の中から、生きている我々が学ぶべき事柄はたくさんある。見方を変えると、登山中だけではなく、身近な山野でも起きうる事故の芽がありそうだ。
福岡大ワンゲル部の事故報告書をもとに、経過を振り返ってみる。
■第1、第2の襲撃(25日)
福岡大の5人は1970年7月14日、日高山脈縦走のため、北部の芽室岳から入山した。
25日午後3時20分ごろ、カムイエクウチカウシ山北側にある九の沢カールに着いてテントを設営。
午後4時半ごろ、夕食後に全員がテント内にいたとき、6−7メートル先にクマを発見。最初は興味本位に眺めていたが、やがて外にあったザックをあさり、食料を食べ始めたので、すきを見てザックを回収、すべてテント内に入れた。火をたき、ラジオを鳴らし、食器をたたいていると、クマは30分ほどで姿を消した(第1の襲撃)。
午後9時ごろ、クマの鼻息がして、テントにこぶし大の穴があく。2人ずつ交替で起きて見張りをした(第2の襲撃)。
■引っ張り合い
7月26日午前3時起床。撤収準備中の午前4時半、再びクマが現れ、近づいてきた。テントに入ろうとするので、5人は支柱やテント地を握り、5分間ほど、クマとテントを引っ張り合う形になった(第3の襲撃)。
最後にグマと反対側の幕を上げ、5人そろって稜線方向に逃げ出し、50メートルほど離れた。クマはテントを倒し、ザックの中身をあさっていた。ザックをくわえては低木帯の中に隠すという行動をくり返した。
リーダーA君の指示で、サブリーダーB君と最年少のE君の2人が九の沢を下って、ハンター出動を頼むことになった。
2人は午前7時ごろ、八の沢出合いで北海岳友会(北海学園大)の18人パーティーに出会い、救援要請を依頼。コンロや食料、燃料、地図を借り受け、残った3人と合流するため、八の沢を登りなおした。
■夕暮れの襲撃(26日)
26日午後1時、カムエク岳近くの稜線で下った2人と残った3人が合流。稜線上で鳥取大、中央鉄道学園のパーティーに会う。
午後3時、稜線上のほうが安全と判断してテントを張る。
午後4時半、ヒグマ出現。縦走路を50メートルほど下って、1時間半ほど様子を見る。午後6時ごろ、鳥取大のテントに避難させてもらうことに決定。稜線を外れて、カールを下り始める。
午後6時半、稜線から60-70メートル下ったところですぐ後ろにいるクマに気づき、全員が駆け下りる。
E君が最初に襲われ、ヤブの中で悲鳴や格闘の音がした後、「足を引きずりながら、カール底の鳥取大テントの方に向かって行くのが見えた」という。
リーダーA君が「全員集合」をかけたが、集まったのはB君、D君の3人のみ。2年生のC君は、答える声は30メートルほど下から聞こえたが戻らず、そのままはぐれてしまった。C君はこの後、1人で夜を過ごし、翌日の27日午後3時までは生存していたことが、遺品のメモから分かった。
午後8時ごろ、3人は安全そうな岩場に身を寄せ、ビバークした。
鳥取大はたき火をし、ホイッスルを吹くなどしてくれたが、その後、沢沿いに下山したようだった。
■最後の襲撃
27日朝は霧が濃かった。3人は午前8時から行動を開始。岩場から下るとまもなく、目の前にクマが出現した。
リーダーA君がクマを押しのけるように進み、そのままカールの底の方へとクマに追われていった。A君も遺体で発見される。
残った2人はカールを避けながら八の沢に出て、沢を下った。午後1時、砂防ダム工事現場に着き、車を手配してもらう。午後6時、中札内駐在所に2人は保護された。
■孤独な夜
26日夕方に仲間とはぐれたC君は、孤独と恐怖の中で手帳にメモを残していた。「下の様子は、全然わからなかった。クマの音が聞こえただけである。仕方ないから、今夜はここでしんぼうしようと…」とある。
彼は焚き火が見えた鳥取大のテントに逃げ込もうと、夕暮れの中を下ったが、クマに見つかり、追われる形になった。
ガケに上り、石を投げつけ、「15pくらいの石を鼻を目がけて投げる。当った。クマは後さがりする。腰をおろして、オレをにらんでいた。オレはもう食われてしまうと思って…一目散に、逃げることを決め逃げる」と書いた。
転びながら、後ろを振り返らず、やっと逃げ込めたテントには誰もいなかった。
「なぜかシュラフに入っていると、安心感がでてきて落ちついた。それからみんなのことを考えたが、こうなったからには仕方がない。風の音や草が、いやに気になって眠れない。鳥取大WVが無事報告して、救助隊がくることを、祈って寝る」
翌27日、早朝から目は覚めたが、「外のことが、気になるが、恐ろしいので、8時までテントの中にいることにする」。
テントの中のご飯を食べて少し落ち着いたが、状況は変わらない。「また、クマが出そうな予感がするので、またシュラフにもぐり込む。ああ、早く博多に帰りたい」と、切ない言葉が続く。
午前7時、下山を決意して握り飯を作り、テント内のシャツや靴下を借りて外に出るが、「5m上に、やはりクマがいた。とても出られないので、このままテントの中にいる」。
絶望のメモは字が乱れ、不安を書き記して途絶える。
「3:00頃まで…(判読不能)
他のメンバーは、もう下山したのか。鳥取大WVは連絡してくれたのか。
いつ、助けに来るのか。すべて、不安でおそろしい…
またガスが濃くなって……」
C君は1人でテントにいるところを襲われて亡くなったらしい。
■襲撃の目的変化
事件から15年後の1985年、ヒグマの会の会報「ヒグマ」に、当時捜索や救援に当たった地元のハンターや登山家ら9人による座談会が掲載されている。
そこで挙げられた要因の第一が、「一度クマに奪われたザックを取り返した」という点だった。
第1から第3の襲撃までは、このクマは人間ではなく、ザックとその中の食べ物を目当てにしているようだ。学生たちも、身の危険を強く感じている様子ではない。
クマが積極的に攻撃してくるケースには、「子グマを守る」「遭遇して興奮した」と並んで、「獲物を守ろうとする」という行動がある。日高の場合、たとえ人間が所有する大事なザックであっても、クマがいったん荒らして中の物を食べた場合、人間が「取り返す」行動は、クマからすると「奪われた」ことになる。
福岡大の場合は、ザックの行き来が何回もあり、次第にヒグマの行動が大胆に、攻撃的になってきている。そして、第3の襲撃(テントの引っ張り合い)を境に、ヒグマは人間そのものを執拗に追うようになった。
至近距離の「引っ張り合い」という行動を通じて、ヒグマにとって登山者が「邪魔者」から「敵」に変化していったのかもしれない。
遺体の状況は、かみ傷、ひっかき傷が多数あり、下腹部や大腿部がえぐられているが、座談会の出席者は「食害が目的ではないだろう」という点で一致している。腹を空かせて人間を「食べる」目的で襲ったという訳ではなさそうだ。
■もう一つの襲撃
実は同一個体と考えられるヒグマの襲撃が、事故の直前に起きている。
福岡大パーティーに食料やコンロを貸した北海岳友会(北海学園大)のうちの5人パーティーが、7月24日午後2時半ごろ、九の沢に近い稜線上でクマに追いかけられた。岩の上によじ登ってかろうじて難を逃れたが、5人のうち、3人のザックがこのとき奪われている。
目撃されたクマは2mはあろう巨大なクマ」で、福岡大を襲った小柄なクマとは食い違いがあるが、場所や時間からすると、同一の可能性は高い。
さらに事件の約1カ月前、6月上旬に単独縦走に入った室蘭の会社員が、カムエク山付近で行方不明になっている。証拠は全くないが、天候は良く、滑落などの痕跡もないことから、ヒグマ事故との関連も疑われている。
■下山の判断は?
ヒグマの攻撃がエスカレートする中で、事故は避けられなかったのだろうか。
地元の登山家は「日高のクマは大声やラジオで逃げると思っていた」というが、座談会出席者は「学生たちは、逃げるチャンスはいくつもあっただろう」と残念がる。結果論からすると、早めに下山する、あるいは他のパーティと合流するなどの行動があれば、この事故は起きなかった可能性は高い。
この点に関し、福岡大の報告書は@ザックの中にあった金銭や貴重品がないと困るAザックやテントを持ち帰ろうと考えたB日程的には無理ではなかった、と装備をあきらめてすぐに下山しなかった事情を説明する。また、「(人を襲うような)凶暴な熊については知ることができなかった」と、適切な情報が事前に得られず、危険の予測が難しかった点を挙げている。
当時、現場付近にいた各登山隊のうち、北海学園大や帯広畜産大などの道内勢は比較的早く下山し、最後まで残っていたのは、福岡大と鳥取大、中央鉄道学園の道外パーティーだった。
■走らない、離れない
クマがいれば現場から遠ざかる、というのは、近年ではよく知られている対応策だが、もう一つ、移動するときはあわてず、固まって行動する、というのも大事な点だ。
福岡大の一行も、後方にいるクマに気づいて逃げようとし、浮き足立ったり、バラバラになったりしている。野外でも複数の人が固まっているところをヒグマに襲撃された、というケースはきわめて少ない。複数死亡事故も、ほとんどが離ればなれになって被害に遭っている。
1984年、北海道放送の依頼で野生生物情報センターの小川厳さん(ヒグマの会元理事)がのぼりべつクマ牧場で行った実験がある。ヒグマの運動場にマネキン人形を吊して試すと、正面から向きあって近づけるとクマは後ずさりするが、背を向けて逃げる姿勢にすると、いきなり飛びかかって押さえ込み、放さなかった。
座談会でも「背を向けて逃げるのがいちばん危ない。本能的に襲ってくる」「ばったり会っても、とにかく人間同士固まって行動する」「興奮させない。石なんか投げると、かえって敵になってしまう」「人間も怖いが、クマの方もそれ以上に怖がっていることが多い」などという、体験から生まれた遭遇対策が語られた。
また、クマ牧場の実験で、ザックを中に入れるとクマは強い好奇心を示した。1−2時間も熱中し、取り上げようとすると執拗に追ったという。
小川さんは「クマに追いかけられた時にザックや小物を置いて時間稼ぎすることは有効だが、取り返すことは自殺行為だ。また、その場は助かっても、食べ物の味を覚えると、次の人が追いかけられることにつながるので、安易に物を手放すべきではない」という。
今回のヒグマは、どこかの時点で、人間をつけねらう「異常なクマ」になってしまったが、それでも「ゆっくりと、できれば後ずさりして、クマの様子を見ながら離れる。仲間同士は、けして離れない」という、遭遇時の基本対策はある程度有効だっただろう。
福岡大パーティーを襲ったと見られるヒグマは、7月29日、八の沢の現場付近で射殺された。駆除隊の前に警戒する様子もなく出てきたという。2-3歳の若いメスのヒグマだった。
遺骨は現場で荼毘に付され、翌年、遺品の多くが回収された。回収に参加した地元の町田〓さんは、「血痕がつき、ぼろぼろになったテントや、カメラ、登山靴などが残されていて、何とも痛ましい場所だった」と語る。
八の沢カールの現場には追悼のプレートがはめ込まれ、「高山に眠れる御霊安かれと挽歌も悲し八の沢」とある。
(山本牧)
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