■野外調査事始 大雪山系は大雪山国立公園だけでも23万ヘクタール、東西・南北とも60キロ近い広大な火山群と森林帯だ。北海道の中心にあって、2000メートル級の高山が連なり、中央部を貫通する車道はない。ヒグマにとっても重要な生息地だが、その広さと補給や基地設営の困難さゆえに、継続的、集約的な生態の調査研究は難しく、長年の取り組みにもかかわらず、全体像はまだ明らかにはなっていない。 山系の中央部は比較的ゆるやかな起伏の地形にツンドラ状の植生が広がり、見晴らしがいいこともあって、夏季にはしばしばヒグマが目撃される。この地域の最初のヒグマの観察者は、縄文人や先住民族たるアイヌの人々であっただろう。 白雲岳や黒岳付近では、黒曜石のヤジリを中心とする石器やその破片が見つかる。たまたま落としたものではなく、夏場の高山帯に長期滞在し、石器を製作もしていた痕跡らしい。 上川、北見、十勝の3地方をつなぐ交易ルートとも考えられるが、高山帯が先人の狩りの場であった可能性も高い。その対象はおそらくヒグマだろう。森林帯では発見・追跡が難しいヒグマも、高山帯では遠くから見つけて先回りすることが可能だ。 戦前・戦後にかけて、北大教授の犬飼哲夫らが聞き取りや寄生虫の調査をしているが、野外でのフィールド調査は北大ヒグマ研究グループ(クマ研)から本格的に始まる。 北大の主に農学部生、大学院生が集まったクマ研は1970年、発足後の最初の調査地として大雪山を選んだ。ヒグマの生息地として知られ、登山道が整備されて観察もしやすいということからだった。 この後、調査フィールドとしての大雪山は、この「見やすさ」と「遠さ」の要素の間を揺れ動き、中断と再開をくり返すことになる。 発足当初のクマ研の研究課題は、系統分類のための頭骨の収集、歯による年齢査定と年齢構成解析に加えて、行動観察(採食や繁殖、個体間関係など)と個体数推定を掲げていた。大雪山の調査は後者2つが目的となった。 最初は白雲岳周辺を拠点に、営林署の高山植物監視員や山小屋管理員、ハンターらに地形やクマのよく出る場所を教わった。見晴らしのいい場所から姿を探す「定点観察」と、歩き回って足跡やフン、食痕を探す「痕跡調査」が主だった。 2年目の71年には、「単なる観察ではデータにならない」という考えから、「フンの数から個体数を推定する」ために、区画を設定してその中のフンを徹底的に数える手法を取り入れた。だが、ハイマツのヤブは手強く、フンの密度も低いために、この方法は労力の割に成果が上がらなかった。 72年8月には、白雲小屋付近に現れたヒグマを発見し、1200ミリの超望遠レンズで撮影に成功する。だがその3日後、このクマは、残飯をあさるなど「人慣れしすぎた」として、上川町が依頼した駆除隊に射殺された。「ひぐま通信」には「何となく気落ちして酒がほろ苦い。羆風吹く」と書き記されている。 その後、1974年まで、夏の高山帯で山小屋やテントに泊まりながら、長期観察が続いた。多数のフンを採集して持ち帰り、その分析からハクサンボウフウなどセリ科草本中心の食性が見えてきた。 だが、補給や滞在が困難、痕跡が残りにくい、得られるデータが断片的、などの理由で続行は難しくなってきた。クマ研自体が、創設メンバーから教養部の1、2年生主体に変わり、登山技術の訓練から必要になった、という事情もある。75年からは一斉調査が北大天塩演習林(幌延町)に移り、大雪山調査は一時中断する。 ■ケイコ
1979年の予備調査を経て81年まで3年間、高原温泉から高根ヶ原にかけて、「ケイコ」と名付けた2頭の子を連れたメスグマの長期観察が行われた。 写真家・小田島護氏に協力する形の調査だったが、近距離からの観察を元に、採食物の確認や食性と移動の関連、ほかのクマとの社会関係、活動時間など、これまでにないきめ細かい知見が得られた。 「ケイコ」は人が視界内にいても、一定距離ならば気にせずに採食や休息をするようになった。それは平和な光景ではあるが、不特定多数の登山者が入る国立公園内では、問題のある状況でもあった。 クマ研は「我々の調査行為が、少なからずクマが人慣れしてしまうことに影響を及ぼしていたかもしれず、この点は充分反省し…人の影響下での観察を行うべきではなく…必要以上の接近はすべきではない」(新ひぐま通信10号)という結論に達し、接近型の調査を打ち切った。 高原沼とそこから高山帯に上がる三笠新道では、ヒグマの出没が相次ぎ、81年には一時通行止めになった。82年3月には、高原沼付近で親子グマ3頭が駆除され、「ケイコ親子ではないか」「そうじゃない」という騒ぎも起きた。 大雪山の高山帯は国立公園の特別保護地区であり、特別天然記念物でもあるので、文化庁は高山帯での駆除を容認しなかった。だが、猟友会側は「低山の樹林内は見通しが悪く。高山帯でないと駆除はできない」と許可を返上するなど、混乱があった。そもそも、出没状況に関する十分な調査データやヒグマの行動や危険性の回避に関する知識がないままに、「人前に出たら危険だ」「近づいたら駆除」といった、その場しのぎの対応が続いた。 全道的にヒグマの捕獲数が急減していることもあり、ヒグマの会は82年11月、堂垣内尚弘知事あてに「駆除だけに頼る対策をやめ、生態調査と利用規制、登山者への情報提供などを組み合わせた、恒久的なヒグマ対策を」と要望書を提出した。道は翌83年夏、「高原沼地区の歩道利用に関する検討会議」を設けたが、継続的な調査活動に基づいた管理方針の策定には至らず、沼巡り登山歩道の閉鎖と再開がくり返された。 ■トムラウシから低山へ 北大クマ研の大雪山調査は、82年の予備調査を経て、高山帯の中ほどにあるトムラウシ山周辺で83年、84年と行われた。テント泊まりの不便な環境で、長時間の定点観察とフンや食痕の採集調査を続けた。 フン分析から、タンパク質が多い若草の時期に草本の先端部を好んで食べ、タンパク質が減る8月中旬からは、根茎を食べるように変化することが分かった。これらの調査は、道庁による全道を対象としたヒグマの生息実態委託調査の一環として行われ、クマ研が各地における現地調査を担当した。大雪山における調査結果は、委託調査の成果として報告されている。 ヒグマが高山帯を利用するのは、6月から初雪が降る9月ごろまで。のどかに草やコケモノの実などを食んでいるように見えるヒグマたちも、低山の樹林帯抜きでは生きていけない。だが、大雪山の山麓に広がる樹林帯はあまりに広く、アクセスもよくなかった。 そこで、新たな低山帯調査地として浮上したのが、富良野市にある東京大学北海道演習林だった。東大演習林は大雪山系の南端に位置し、23000ヘクタールと国内で最も広い大学演習林だ。林内を走る高密度な林道網や宿泊施設にも助けられた。 1985、86の2年間でフンが121個採集された。春には若い草本と前年に落ちたドングリの実、夏にはフキ、秋にはドングリやイチゴ、ブドウなど。天塩とよく似た季節のメニューが判明したが、畑の農作物を荒らした内容物も出てきた。少数ながら高山植物もフンから見つかり、ヒグマの移動の大きさが伺われた。 富良野の調査は高山帯である上ホロカメットク山も含め、1991年、92年にも行われた。 ■再び直接観察 見晴らしのいい大雪山系北部の高山帯における定点調査は、1990年から再開された。北海道が日本野生生物研究センターに委託し、クマ研メンバーが調査員として参加した。黒岳や白雲岳の避難小屋周辺を拠点とし、お鉢平カルデラとその周辺に現れるヒグマの個体を識別し、行動パターンを記録した。 1991年、北海道の環境科学研究センターが発足し、間野勉がヒグマ専門の研究者として採用された。大雪山では、個体数のモニタリングが目的とされ、定点観察のほか、航空機による観察や、アンケートによって生息状況を採るなどの多角的な方法がとられた。 定点観察はおよそ4000ヘクタールの広大な山域に調査員を配置し、毎夏8頭から15頭が個体識別できた。だが、調査を行うほど、登場する個体は増え、生息数を推定することは難しかった。 道の調査が終わった後も、クマ研の主力フィールドとして、大雪山の定点調査は続けられている。登山者とヒグマの関係、採食地の利用、日周活動、季節移動などが調べられている。 何より、若いメンバーが「ヒグマを見る」ということは、野生動物を考える上で、大きな基盤となる。力強さ、美しさに畏敬の念を抱き、存在感に圧倒される。データの断片ではなく、生き物としてのつながりをひとそれぞれにとらえることになる。また、道内一の高山帯で登山と生活の技術を身につけることも、重要な点だ。 ■ヒグマ情報センター 上川町高原温泉にあるヒグマ情報センターは、画期的な施設だ。紅葉の名所で、年間5000人から1万人が訪れる高原沼巡りコースを歩くには、必ずこの施設に入らないといけない。 情報センターは温泉ロッジの向かいにあり、正面入り口から入ってヒグマに関する展示を眺め、名簿に記入し、安全レクチャーを受けて初めて、裏口側からコースに出られるというレイアウトだ。数人のスタッフが常駐し、早朝からコースを巡回し、安全を確認してからゲートを開ける。つまり来訪者の入山規制と教育が確実にできる構造となっている。 実際の運用は、入山開始が午前7時から午後1時まで、午後3時までにはセンターに戻ってきてもらう。早朝、夕方のヒグマの活動時間を避け、同じ空間をヒトとヒグマがすみ分ける工夫だ。毎日の巡回調査によってヒグマの動きを確かめ、出没状況や場所、頻度によってはコースを部分閉鎖して折り返しにしたり、通行時間を短縮したり、時には全面閉鎖したりする。荒天、増水、登山道の崩壊の時も同じだ。 開所したのは1994年7月。ヒグマの会が恒久的なヒグマ調査と入山規制の仕組みを提言してから12年後のことだった。 情報センターの正式名称は「国設鳥獣保護区管理棟」。名前通りなら、単なる詰め所にしかならないが、上川駐在の環境庁(当時)統括自然保護官だった中島慶二が奔走し、調査・監視スタッフをそろえ、展示を整備して、ゲート機能を持つ施設を実現した。 中島は2007年に上川町で開かれたヒグマフォーラムに出席し、「暴走レンジャーとも言われたが、実現できてよかった」と述べる。制度を生かすも殺すも人次第、という例だろう。 センター建設費は国(環境庁)が支出し、現在の運営は環境省、北海道、上川町の3者が資金を負担し、有限会社風の便り工房に業務委託している。資金は先細り傾向で、万全ではない。熱心やスタッフも安全管理や歩道の修復に追われ、膨大な観察記録を調査データとして活用できないのが悩みだという。 大雪山系では、生態調査の定番となっているテレメトリー(電波追跡)が一度も行われていない。車道がないことに加え、国立公園の規制や森林管理者の非協力などがネックとなっている。定点観察調査からは、高山帯に多くのヒグマが出入りし、通過や採食をしていると推測されるが、広域的な移動はほとんど分かっていない。 「大雪山を世界自然遺産に」という運動も始まってはいるが、ヒグマ情報センターのような先駆的な試みも局地にとどまり、広がっていないのが現状だ。日本最大の国立公園にふさわしい、ヒグマをはじめとする野生生物の保護や生息地保全と入山者の安全確保をどう両立させるのか。景観保全や控えめな伐採規制だけで進んできた大雪山国立公園は、次の段階へと進むべき時に来ている。(山本牧)