原生自然と生活を保全する取り組みの軌跡 知床は日本に残された大な広がりを持つ最後の「原生自然」だ。しかし、行動圏の広いヒグマの視点からすると、基部で幅30キロ、長さ70キロあまりの半島は狭く、また森林伐採や林道建設で傷ついてもいる。だが、半島の中央以先に定住者はわずかで、海岸から川、森林、高山帯と、海抜0メートルから最高峰・羅臼岳の1661メートルまで、多彩な原生的環境がぎっしりと詰まっている。そこには驚くべき豊穣さで野生が息づいている。しかも、その海は北半球で流氷が訪れる南限。「ウサギ追いしかの山…」といったいわゆる日本の原風景から、大きくかけ離れた凄みのある自然が知床の本質だろう。 さらに地球上におけるその位置もユニークだ。北方領土・千島列島と平行し、その先はカムチャツカ、アリューシャンを経て、アラスカ・北米大陸に至る。北西に向かえば、オホーツク海沿いにサハリン、ロシア極東のユーラシア大陸北部へ、南西には日本列島を南下して南アジアに至る。地史と生物史、そして人間の歴史が複雑に結び合う交差点だ。 知床の動物調査は、永田洋平、犬飼哲夫らが記録を残しているが、まとまったフィールド調査は、やはり北大の若手研究者が始めた。75年、北大ヒグマ研究グループの梶光一らが標津町や斜里町の予備調査に訪れた。76年には、京都大北海道演習林(標茶)の吉村健次郎林長と北大クマ研の学生が知床岬や羅臼湖などでヒグマの痕跡調査をしている。このころ、半島西側の小清水町では、獣医師の竹田津実のもとに若い研究者が集まり、キタキツネやネズミ類、野鳥の野外調査が集中。秘境の地と言われた知床への生態学的アプローチが始まりつつあった。 大きな転機は79年に訪れた。北大歯学部の大泰司紀之らが、道庁による知床半島自然生態系総合調査の動物部門を担当し、当時としては画期的な航空機や船舶も動員した大がかりな調査を開始したのだ。それは本格的なヒグマ調査としても「知床元年」ともいうべき年となった。ヒグマを担当した北大クマ研の学生たちや当時北大助手であった青井俊樹の興味は、北海道ではほとんど見られなくなっていたヒグマによるサケマス捕食や、単独生活のヒグマが餌の豊富な場所に集まる現象を調査したいということだった。 当時、知床といえどもサケマスをヒグマが食べることができる場所はごく限られており、食痕や糞は確認したが、サケを捕るヒグマの姿はわずかに垣間見られただけだった。81年には、知床岬の海蝕台地の草原で6頭ものヒグマが集まって草本を食べているのが観察された。調査に参加した若者たちは「まだこんなところが日本にもあったのか」と興奮した。 こうした調査結果は、北海道の「知床半島自然生態系総合調査報告書」(1981)や「野生動物分布等実態調査報告書」(1987)などを経て、88年には大著「知床の動物」にまとめられた。このときの成果は、やがては知床が世界自然遺産に登録される上で重要な基礎の一つとなった。ヒグマについても標高が異なる環境の利用や食性の季節変化、サケマスの捕食行動、被害問題など人との軋轢が調査分析され、生息環境の改善や被害防止、国立公園の利用や調査研究体制などの提言が盛り込まれた。それらは調査や保護管理活動が活発に繰り広げられる現在の知床の姿を予見させるものであった。 「知床学」のゆりかごとなった地元の支持と協力 こうした大がかりな野外調査には、地元の支持と協力、そして貧乏学生たちが利用できる拠点が不可欠だった。斜里市街の北大文学部北方文化研究施設の斜里分室は調査拠点となり、夜な夜な若者たちの熱い議論が戦わされた。フィールドにおいては、多くの漁業者が半島先端部の番屋を快く使わせてくれたし、羅臼岳山麓の山小屋「木下小屋」は、管理人の法量武の好意でしばしば前進基地になった。山小屋を通じて、斜里・羅臼両町の山岳会の人々との交流が生まれ、心強い支援や助言を受けた。 初期の頃、右も左もわからぬ学生たちに、貴重な知識を授けてくれたのは、地元の狩猟者の面々だった。当時、猟友会斜里支部長であった高木寿一(現・ヒグマの会副会長)をはじめ斜里・羅臼両町猟友会の人々は、要領を得ない学生たちの質問に根気よくつきあった。高木はクマ猟に情熱を燃やす狩猟者であると同時に、ヒグマの会の熱心な会員でもあった。ちょうど82年、鳥獣保護区が知床国立公園内全域に拡大されたのを機に、当時は保護区でも普通であった春グマ駆除を斜里の猟友会は自粛しはじめていた。それは90年に北海道が全道で春グマ駆除を廃止するはるか前のことだった。プロハンターを夢見て、小樽から標津に移っていた久保俊治(「羆撃ち」著者)は、北大クマ研に泥臭い山歩きの基礎を叩き込んでくれた人であったが、同氏宅は学生たちが必ず立ち寄って世話になる場所であった。 地元の支援の中で特筆すべきは、斜里町立知床博物館の存在だった。同博物館には町立レベルでは希有な、3人もの学芸員がおり、その中に北大クマ研OBでヒグマの会会員の中川元もいた。同博物館は79年からの生態系総合調査の核となって、知床を訪れる研究者たちの受け入れの労をいとわなかった。また、活発な調査活動、特別企画展や紀要「知床博物館研究報告」、小冊子「郷土学習シリーズ」などで知床のヒグマの普及啓発にも取り組んだ。 後に知床自然センターの創設に伴って、ウトロ地区に整備された通称「マルボ」と呼ばれる「ボランティア宿舎(現・知床自然教育研修所)」の存在も大きかった。ボランティアや研究者のための宿泊拠点として、斜里町が用意したものだが、初代は空き家になった消防分署を転用した簡素な宿泊所だった。その後も、警察官駐在所跡、歯科診療所跡と転々としたが、いずれも古い建物の再活用で、利用者の自主管理に委ねた合宿所のようなものであった。古く、寒くはあっても、多くの若手研究者や自然ボランティアにとって、自由で安価な拠点ができ、長期の調査活動が可能になった。また、ここで共同自炊をするような関係から、自然に交流が生まれ、活発な意見交換や論議の場にもなった。 ここで知り合って互いの研究分野や考え方を理解し、調査の手法やデータの解釈に激論を交わし、時には互いに手伝い合う関係が結ばれた。地元関係者も差し入れを持っては訪れ、ヒグマに限らず、キツネやエゾシカ、魚類、海獣類、地質など、幅広い「知床学」のゆりかごになった。 経済的に恵まれない若い研究者にとって、こうした支援は何よりありがたく、印象深い。今、日本で初めて自然保護区の常設の専門家組織「知床世界自然遺産地域科学委員会」が設置されているが、そのメンバーの多くが若いときにこうした「一宿一飯(多宿多飯)」の恩恵を地元から受けている。地域の自然を思う地元と研究者の共感が、知床の分厚い調査成果の背景にある。 国有林伐採の衝撃 64年の知床国立公園指定、70年代の秘境ブーム、77年に始まった100平方メートル運動(ナショナルトラスト)、80年の知床横断道路開通と、半島の開発と保全の動きは揺れながら進んできた。さらに大きな転機は、86年からの知床国有林伐採問題だろう。 国立公園の天然林から大木を切り出す計画に、全国で爆発的な論議が巻きおこった。79年からの生態系総合調査に結集した研究チームや地元博物館学芸員らも、知床の価値を物語るデータに基づいてこの伐採計画に強い疑問を提起した。しかし、87年3月、林野庁は伐採を強行。その直後の町長選挙では、伐採反対派の午来昌(ごらい・さかえ)が当選した。結果的に知床の知名度と価値を高めた伐採論議を背景に、午来は知床の環境保全政策を打ち出し、88年に自然トピアしれとこ財団(現在の知床財団)を設立。活動拠点として知床自然センターを整備した。 午来の公約の中には「国立公園の維持管理に町がかかわる。そのために町職員のレンジャーをおく」というものがあった。知床自然センターの活動を支える職員として採用されたのが、北大クマ研時代から知床でヒグマや海獣類の調査を重ねていた山中正実(現・知床財団事務局長)だった。町と財団、博物館などのスタッフが協力し、地元と町外の研究者をエンジンに、知床の自然環境調査と保全政策が展開されていった。 90年、林野庁は伐採を行った森を含む知床国立公園の国有林全体を「知床生態系保護地域」に指定し、保全へと転換することになる。 ヒグマの調査も自然センターの山中が北大クマ研などと連携して調査を進め、大きく進展した。ヒグマを捕獲して電波追跡するテレメトリーが実用的な調査方法となり、冬眠あけの行動を知る早春一斉調査や観光客へのアンケート調査も行われた。89年と91年には、夜も昼も連続して電波追跡を行う「24時間テレメ」があった。日周活動などのデータ取得はもちろん、「生き物の気配を感じ続ける」困難な体験が語り継がれることになった。同じ個体を毎年追跡し続けることで、メスの成獣は何年も同じ地域にとどまって定着的であることが明らかになった。知床半島におけるメスの行動圏の広さは平均15平方キロメートル程度で、これは世界的でも最も狭い部類に入り、ヒグマの生息を支える知床の自然の豊かさを物語る。 2007年から3年間続いた北海道国際航空(エア・ドゥ)の寄付による知床財団・北海道環境科学研究センター・北大理学部の衛星を用いたGPSテレメトリー調査やDNA分析は、知床のヒグマの移動分散、行動圏の利用様式について、さらに画期的な情報を提供した。サケマスを食べるために40頭を超えるヒグマが集まるルシャ地区では、知床財団や北大水産学部・獣医学部によって、海と森のサケとヒグマを介した物質循環や、詳細な個体識別による社会行動の研究など、国内の他の地域では行い得ない研究も開始された。知床はこれからも、ヒグマ研究において新たな切り口を示し続けるだろう。 さまざまな調査の結果、知床半島のヒグマは、サケマスがあふれる川や、高山から海辺までを行き来しながら、多様な環境が季節ごとにもたらす豊かな餌資源を利用して生活していることが示された。国内のほとんどの海岸が人間に占有された今日、海辺まで生活の場にできるクマは、今や知床のヒグマだけである。ヒグマは山の動物、森の動物というイメージが強いが、それは人に追いやられた結果であって、本来の姿ではない。北海道開拓前には普通であっただろうヒグマ本来の暮らしが、知床では脈々と続いている。 一方、知床のヒグマは観光客が行き交う道路・遊歩道や市街地のすぐそばなど、意外なほど人間の近くで日常的に暮らしていることも明らかになった。つまり、原生自然と人間の生活圏の2つの要素の間で、その個体群が存在していたのだ。彼らの暮らしぶりが明らかになるにつれ、森の奥に潜む得体の知れない恐ろしい生き物という従来のイメージではなく、人の近くでものんびり平和に暮らしている生き物という側面も見えてきた。知床のヒグマ研究は、彼らの生態学的特性を明らかにするとともに、人とヒグマの共存を考える上でも、貴重な知見と課題を与えるようになっていった。保護の進展につれ自由に大胆に行動するように大きく変わっていくヒグマたち。知床は必要に迫られて、国立公園利用者や住民の安全確保、農業被害の予防など、保全対策面でも理論と実践を深めていった。 時代のうねりとヒグマたちの変化 90年代は、かつてのやみくもな駆除や無秩序な狩猟の見直しが全道的にも進んでいった時代である。知床でも92年にヒグマの保全を巡る象徴的な事件が起きた。調査用の発信器がつけられたヒグマが動かなくなり、国立公園内の幌別地区でくくりワナにかかった白骨死体となって発見され、大きく報道されたのだ。ワイヤーが樹木にからみ、ヒグマは宙づりになって死んでいた。このクマはワナを引きちぎって逃げ出すことができたが、途中でワイヤーが木にからんで身動きがとれなくなったらしい。ワイヤーは骨にまで食いこんでいた。手首をワイヤーで引っかけるくくりワナは、簡便軽量で当時はセミプロ的な狩猟者がよく使っていた。 ワナにかかったクマは極度に興奮してきわめて危険だ。ワイヤーの届く範囲に人が知らずに近づけば事故は必至だ。また、高価に売れるクマの胆(胆嚢)を大きくするため、ワナにかかったクマを何日も放置する者もいた。空腹のまま興奮させておくと胆汁の分泌が増え、消費が少ない状態になるのだという。 こうした残酷さや危険性のため、クマに対するくくりワナは、この件などを契機として、92年9月から禁止猟具となった。だが、93年には知床国立公園内の海岸に船で上陸して、くくりワナでヒグマの密猟を行った者が、海に転落して水死する事件も発生した。知床自然センターによる生態調査や監視活動が奥地でも日常的に行われるようになるにつれ、こうした密猟行為は影を潜めていった。 80年代の知床国立公園全域の鳥獣保護区化、地元猟友会による春グマ駆除自粛、90年代の全道的なワナ狩猟の禁止措置や春グマ駆除廃止、密猟の減少など、ヒグマを巡る社会環境は大きく変化していった。おそらくはそれらを反映して、90年代、知床のヒグマの行動も大きく変化していった。 92年12月には、ウトロ市街地にヒグマが現れ、ホテル街などを歩き回って駆除された。斜里町は「駆除は最後の手段」として追い払いを基本対策としていたが、この場合は市街地内部にクマが入り込み、山へ追い返すのは難しいと判断された。この頃から、周囲を森に囲まれて孤立するウトロの街にヒグマが侵入する例が目立ちはじめた。そして、95年、ウトロ市街地周辺の他、国立公園内の知床五湖などたくさんの人が訪れる場所に、ヒグマが出没する事例が劇的に増加しはじめた。 ヒグマと折り合いをつける努力と苦悩
今や、知床では奥地でなくとも、ヒグマが川でサケを獲る姿を見ることができる。海岸探勝の観光船の呼び物は浜を歩くヒグマとなった。知床では毎年数万人の観光客が、野生の躍動に歓声を上げている。ヒグマはかつての「厄介者」から観光資源の側面も持つようになった。毎年欠かさず知床を訪れるバードウォッチャーならぬヒグマウォッチャーも出現している。 ヒグマ高密度地帯で漁を営む漁業者たちも大きく変わった。多数のヒグマが集中するルシャ地区では、定置網番屋の漁師たちとヒグマが互いに無視し合い、食物やゴミの管理を徹底することで、奇跡のような共存を実現(口絵写真)。そのようなクマとの付き合い方は他の漁業者にも波及しつつある。 一方、ヒグマが身近にいるということは、住民や観光客の安全を守る上では切実な課題でもある。95年、ヒグマ出没の激増に直面した斜里町は、総合的な対策を展開し始めた。と言うより、せざるを得なかった。注目を浴びる知床において、無差別な駆除は取り得ない選択肢だ。人々の安全を守ることも絶対の命題である。さまざまな試行錯誤によって手法や技術を開発し、町単独では困難な課題は、国立公園管理者の責務として環境省などを巻き込んでいった。 わが国で初めて取り入れた花火弾やゴム弾による追い払い技術の確立、クマ対策犬の使用、ウトロ市街地の全体を囲んでクマの侵入から守る電気牧柵、発信器装着による問題個体のモニタリング、専門スタッフのローテーションによる常時危機管理、緊急時には専門スタッフが銃器による駆除まで実行できる完結した体制などなど。国内随一の対策が行われるようになった。それらを日々実行していくことは、危険にとなり合わせで、たいへんな労力を要する。2002年、斜里町は人員増が困難な町職員よる野生動物対策や調査研究を、一括して知床財団が行う体制に転換した。柔軟な人材運用が可能な知床財団が、スタッフを充実させながらこれらの業務に取り組む体制に移行したのである。 多数の観光客と高密度に生息するヒグマに関わる課題が凝縮する知床五湖は、今、新たなステージに入ろうとしている。一人一人へ指導できない多数の観光客には、ヒグマから物理的に隔離できる電気柵付きの高架木道を利用してもらい、より濃密に自然に接したい人は、人数を限定して、訓練されたガイドの引率で地上歩道を利用してもらう試みだ。 どこにでもヒグマがいることが当たり前の知床で、ヒグマが存在することを前提に人々の遊歩道利用を認め、かつ、立ち入り人数を限定して確実な安全管理行うとともに、過剰利用による環境の悪化を防ぎ、さらに喧噪を押さえて本物の秘境を感じてもらえるようにするという仕組みだ。これはヒグマと人の関係の管理において、我が国では初めての世界に踏み出す第一歩と言える。 一方、半島東側の羅臼町も、斜里町側とほぼ同じ頃からヒグマとのトラブルに悩まされ、独自の工夫を重ねていた。羅臼町は海岸に道路と市街地が細長く連なり、ヒグマが高密度に生息する森林と長距離にわたって背中合わせに接している。ヒグマは生ゴミや干し魚をあさるため裏山から出てくる。海岸にトドやイルカの死骸が打ち上げられると、ヒグマが人家の軒下を通り、国道を渡って食べに出て来ることも珍しくない。 99年9月25、26日、羅臼町でヒグマの会のフォーラムが開かれた。斜里に比べ地味に思われていた羅臼のヒグマ対策が、地形や社会状況に合わせたきめ細かい優れた内容であることが、このフォーラムで広く知られた。 町自然保護係長(当時)の田澤道広(現・知床財団次長)は、フォーラムの現地視察で、ヒグマを誘引する物を取り除くための営々とした努力を語った。ヒグマが餌付くより先に海獣の死体を浜から回収し、住民に生ゴミの始末などの協力を求める。人家裏の草刈りは、ヒグマ出没防止に予想以上の効果があった。 斜里、羅臼両町の対策は、そのきめの細かさでも、実施結果を事後の対策にフィードバックして改善につなげる点でも、国内で最も進んでいるといえる。 世界自然遺産、そして、未来へ 知床半島は05年、ユネスコの世界自然遺産に登録された。日本政府は、単なる何もしない「手をつけない保護」ではなく、機能する保護管理計画の策定と実行、継続的なモニタリング調査とその評価還元の責任を負うことになった。遺産登録を目指した理由を、斜里町側はこう説明した。「現在の国立公園の制度は力が弱く、林野庁、水産庁、大蔵(財務)省など、省庁間の縄張りを越えて、新しい形の保全には踏み切れない」「だから、政府の仕事である自然遺産登録に向けて動き、省庁が協議する場をつくる」と。羅臼町と足並みをそれた遺産登録推進運動は10年越しの努力で実を結んだ。 遺産登録の狙いは少しずつ実現しつつある。国が責任を持たねばならない世界遺産では、従来の地方への丸投げや省庁間の縦割り行政は国際的には認められず、連携協力の仕組みが作られはじめた。第3者としての「ご意見番」、知床世界自然遺産地域科学委員会も発足。初代石城謙吉委員長、二代目大泰司紀之委員長をはじめ委員は、熱い想いを持って、単なる諮問機関に留まらない活発な活動を展開し、科学的な管理の枠組みを大きく前進させた。エゾシカや海域など個別に具体性ある管理計画が作られていった。広域的かつ一貫した活動が不可欠なヒグマ対策は、斜里・羅臼両町の努力だけでは解決できない。国や北海道も関与したヒグマ管理計画を策定する必要性が、科学員会の提言を通じて認識されつつある。 06年、世界遺産登録を契機に羅臼町は知床財団に出資。斜里町とともに共同設立者となった。財団は知床を文字通り一体的に保全する役割を果たすことになり、スタッフが両町の境界を越えて、ヒグマをはじめとする知床の野生動物の問題に取り組んでいる。 これに触発されて、半島基部の標津町でもユニークな取り組みが始まった。同町の「NPO法人南知床ヒグマ情報センター」に北大獣医学部が加わり、携帯電話網を利用したヒグマのGPSテレメトリー調査が08年から始まった。さらに、知床財団と同様に、標津町と南知床ヒグマ情報センターが連携したヒグマ対策への取組も始まろうとしている。 ヒグマ対策に限らず、知床のさまざまな試みは、地形的な孤立性をうまく利用した仕組みを生み出してきた。国立公園や世界自然遺産、知床財団の存在など、ほかの自治体にはない要素も多い。だが、それらは突然生まれたのではなく、必要に迫られての工夫と努力、地道な調査活動、そして、それを理解し、支えて発展させた地元の動きがあったからこそ実現したと言える。知床の成果は、全道、全国に通用するし、また活用しないとならないだろう。知床で生まれた実践とその枠組みをどう社会に還元するか、どのように広げてゆくかも、次のステップの重要課題といえよう。 (山本牧、山中正実=知床財団事務局長・統括研究員)